悩みの日記。記すは発見。残すは苦悩。

日々の悩みや発見を書き起こし、問題解決の糸口を探る為の日記。

それでも俺は牛丼が好き。

現在、僕は鳴子温泉の奥にあるオニコウベという土地に仕事で来ている。泊まっている場所は昭和末期から平成初期の匂いを色濃く残した宿。Wi-Fiは無い。料理はお膳で宴会場のようなところで食べるが、正直なところそれほど豪勢なものでもなく一目見て「あぁ、この宿は儲かっていないんだな」と理解できる。不味くは無いが、ご飯がすすむというよりは酒のつまみのような印象。

 

入社後初の二人部屋での宿。相方となるのは一次請け会社の五十代のおっさん。機動武闘伝Gガンダムが好きな古のオタクだ。昨日も僕が床に就く隣で深夜までバトオペをやっていた。ポケットWi-Fiまで持参する用意周到ぶりには脱帽せざるを得ない。イヤホンやヘッドホンはしてくれなかったので、当たり前だがすごくうるさかった。

 

話は変わるが、吉野家の常務取締役の発言がTwitterで燃えている。会社側の対応が早かったのでこれ以上何かあるとは思えないが、それでも思うところは多くある。

 

僕は吉野家すき家に関わらず、牛丼というものが好きだ。そして牛丼に限らずジャンクフードというものがとても好きだ。安い、早い、うまい。日常的に自炊しない食事弱者ともいえる我々のような人種はリーズナブルで素早く食べれて、かつわかりやすい味に毒され続けて生きている。

以前ミートソースの話をこのブログで書いたとき、「食」の重要性をチラリと説いたが、今回もその話になる。

 

一日3回。一年で1095回もの回数を我々は「食事」するのだ。生活の質をあげようと思ったとき、食生活の向上が最も手っ取り早く生活の質の上昇を実感できると思う。自分でちゃんとレシピを調べて料理したり、友人とどこかへ食べに行ったり、そういう食にまつわる空間や時間も含めて生活の質を向上させるのに効果的だ、と思う。

 

僕の場合、一人でジャンクフードを食べている時や急いでいてなんでもいいから手っ取り早く食べれるものと言って牛丼チェーンに駆け込む時、食べているものに対して「エサ」のようだと感じてしまう。ニンゲンのエサ。ありがたみは薄いし、ちゃんとした食事かと言われればそんなことは決してないと思う。それでも無性に牛丼やハンバーガーが食べたくなる。今いる宿で出てくる食事を食べている時なんかは特に。深夜に食べる牛丼のような背徳的で依存性の高い「エサ」が食べたくなる。

 

あの役員が言ったセンシティブな言葉はとても「言語」としてレベルが高い。自社の商品や女性への蔑視を「わかりやすく」それでいて「ハイコンテクストに」しかも「下品に」表現している。言葉の内容はクソだし、そんなコンプライアンス意識で講師をやっていたのも驚きだが、言語単体で見れば表現力は満点だ。(あの発言や発言の内容は決して肯定できないことを念押ししておく。)

 

僕が「エサ」と感じたり、役員が変な発言をしたりしても僕は牛丼が好き。蔑称と知りながらもチーズ牛丼は食べるし、一日3食牛丼でも特に気にしたりはしない。牛丼そのものに罪はないから。カロリーとか、バランスの悪さとか、そういうことはあるかもしれないが。

Twitterとかで「吉野家なんてもういかない!」なんて怒ってる人を見ると悲しくなる。別に牛丼屋に行ってほしいわけじゃない。僕は牛丼チェーン店のイメージだとか、周りからもたらされる視線を理由に牛丼を嫌いにならないで欲しいだけだ。そんなつまらない理由で嫌いになるほど牛丼が好きでもないのに、そんなつまらない理由で牛丼を嫌いにならないでほしい。

 

まぁなんだかんだと言ったが、特にこれ以上言うこともないし今日はここまで。

P.S 出張から帰ったら行きつけの「すき家」に行きます。

桜が咲いたら団子を食べよう。

新年度。春。桜。以前はそういう新しい時期とか季節とか、希望に満ちた印象を受けるモノに対してとても否定的だった。自分の持っていない何かがそこにある気がして、卑屈で矮小な自分には受け入れ難かった。前回の記事に書いたように今はそれらをすんなりと受け入れて喜ぶことができており、自分の感覚の変わり様にただ驚くばかりである。これが成長なのか老いなのかわからないでいるあたり、中途半端な感じは否めないが。

 

4月に入ってやっと仕事を辞める目処が具体的なってきたことで少し気持ちに余裕が生まれてきた。会社の人間で僕が仕事を辞めることを知っているのは常務と同僚の2人だけであり、他の先輩方は今まで通りの態度で僕に接している。優しく接してくれる人もいるがそうで無い人の中には新人や仕事が出来ない人らを見下し、貶し、罵詈雑言を吐いて冷たく遇らうような態度を取るような人間もいる。単語で表すとパワハラと呼ばれるソレを平然と行う彼らが嫌な奴である事は間違いないが、さて彼らのような人間は「悪人」なのだろうか。

 

前回書いたようにパワハラは罪だが彼らは悪くは無い。つまり最初から答えは出ていて彼らは悪人ではない。彼らには彼らの主張する意見があり、その中には彼らなりの意味や意義がある。それらの思想が僕には合わなかっただけなのだ。だから何も言わずにこの会社を去るだけなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。他責的な思考をしようとは思わない。この文章が甘えのように聞こえるのなら、それもまた仕方ない解釈だとは思うが。

 

春になり、せっかく暖かくなってきて気分も晴れやか、来月のことを考えるだけで踊り出しそうな勢いの今日この頃。大袈裟に表現したが、正直な話をすればそこまで期待はしていない。今の自分は人間という生き物に期待をしていない。優しい人もいるだろうし、そうじゃない人もいるだろう。それは変えようのないものだし、なるようにしかならない。結局自分の受け取り方次第だとも思うし、そこには今ほど酷い状況にはならないだろうという楽観も含まれていたりもする。

 

言葉に対する受け取り方については深く考えなければならない課題だと思う。必要以上に良く捉えても、逆に悪く捉えても事実や真実からは離れていく。SNSでも言葉を巡る対立や解釈の違いに怒りを発露させている人たちを見ているととても悲しくなる。不愉快な思いをするぐらいなら関わり合いにならなければいいのに、と。

自分に必要なのは都合の良い解釈を辞めることだ。解釈とは理解とは違い、ある程度"幅"と"ゆとり"を持って行われる主観的な認識作業だ。理解という行動は幅もゆとりも無くそのままの形を客観的に確認させられる作業だ。

なぜ今、都合の良い解釈をやめなければならないのかといえば、一言で言えば「他人へ無用な期待をしてしまうから」だ。話がループしそうな予感がする。

無用の期待。自身の例で言えば、パワハラを平然と行うクソみたいな人間もある程度時間が経てば慣れて優しくなると勝手に期待していた。入社から半年以上経った今でも少なからずその様に期待している自分に「なんて甘い考えなんだ」と辟易とする瞬間もある。逆に自分の中に整合性を取ろうとして必要以上に言葉に敏感になって、脳内の相手を脳内で勝手に悪人に仕立て上げようとしている瞬間もあったように思える。極めて主観的で脆い考えだ。

 

主観的であることは情動を必要とする場面なら良い事だが、そうでない場面では自分の見えていない事実にまで気が回らず意図的な解釈をし易く不必要に大きなダメージを負ってしまう。冷静でいる為には常に客観性が必要だと思うし、感情に振り回されると理性でブレーキを踏めなくなる。(もちろん時として衝動に任せて思い切りアクセルを踏むことも人生には必要だとは理解している。)

 

都合の良い解釈を辞めるにはどうすればいいか。相手の真意を理解すればいい。相手の意図を理解し、その意図や思想に繋がった背景を探り、言われた言葉を素直に受け取ればいい。具体的な手段として挙げられるのは普段からコミュニケーションをとること。誰でも思いつくような簡素で無難な答えに落ち着くのをどうか許してほしい。もちろん親しく無い人間とのコミュニケーションのハードルは高い。日本人特有の「察しろ・空気を読め」という文化も相まって昨今の対人間技能は義務教育を持ってしても手に負えなくなっているように思える。

 

元々他人と理解し合うなんて難しいのだから。ハードルは高いままでいいんじゃないか。親しく無い人間の真意を無理やり聞き出そうったって、俺が仲良くなれるのは俺と仲良くする気がある奴だけだ。そいつらの真意だけを理解できていれば俺はもうそれでいい。諦めとか妥協じゃない。取捨選択、と言ってもらおうか。うだうだと考えをつらつらと書いて結局、俺は俺と仲良くできる人間としか仲良くできません!という宣言をする。また一つ自分という人間を理解しちまった。

 

だから、桜が咲いたからバーベキューをしよう。沢山焼いた肉を食いながら他愛もない毒にも薬にもならない会話をしよう。花より団子なんて謙虚なこと言って無いで早く俺に美味しい肉を食わせろ。

 

 

 

階段を登る。

春の風。花粉症の人には辛い季節かもしれないが僕はこの季節がただひたすら嬉しい。雨が降ってもガタガタと震えることもなく、緩い風に目を細めるぐらいのものだ。冬のそれと違って天気が悪くなっても嫌な気持ちにはならず、去りゆく冬を満喫できたか自己採点するだけだ。自分の生きている季節が春であるというだけで何かこう存在を肯定されているような気分になって心地いい。冬はそこに自身が存在することさえ拒まれるような感覚がして肩身が狭いが、四季の中では冬の景色が一番好きだ。

 

4月いっぱいで退職し、5月から介護の仕事へと戻る。あれだけ僕の精神を蝕み自己肯定感を削った介護という仕事だが、今考えれば恵まれた環境に甘えきっていたのだと思うところが多くある。これはその反省文である。介護から離れたのは決して"悪い選択肢"では無かったが"誤った選択"であると今更ながら反省している。これが後悔でないのは自分がどれほど甘えていたのかをよく認識し深く理解することができたからだ。なにせそれは改善ができる。

 

無能を装うことで自分の解決しなければならない人生の課題から逃げる、このブログで綴った苦悩とはそういう行動の表れだったのではないか。介護をやっていた頃は自分が不甲斐ない存在だと思っていたし価値がないとも思っていた。やらなければならない自分に出来る範囲というものを自分で定義して狭めていたようにも思える。当時の自分を否定はしたくないし、あれが当時の自分の目に映る真実だったのは事実だ。自分は無能、という定義が自分を無能にさせていた。

 

だが今は違う。もちろん決して自分が有能で有用な人間だとは思わない。だが今は自分にできることというものを自覚している。今月の29日に27歳になり、ようやくやっと自己覚知の割合が高まってきた。得意なこと、苦手なこと、好きなもの嫌いなもの。価値観、人生観、人間性。悪いところも全部ひっくるめて自分なのだ。こんな、ちゃらちゃらした薄っぺらい言葉を羅列して気恥ずかしいとも思うが、それが今の正直な気持ちだ。

 

今の仕事は自分に向いていない。それは疑いようのない事実であるが、仕事を続ければまた違う結論が出るかもしれない。だが今の仕事に対して未練も執着も、続けるだけの根気であるとか合理的な理由だとか、そういう諸々が無いのでそれはどうしようもない。自分の命の危険が伴う作業であるとか、激しいパワハラや10連勤を上回るような劣悪なワークライフバランスに"耐えてでも続けたい"とは思わない。

 

そういう環境の仕事やその環境そのもの、その環境を作っている人間達は決して悪ではない。(他者を侮辱したり暴力は悪であるが。)彼らもある意味被害者なのだ。そういう環境でしか仕事ができないように育てられた可哀想な人達なのだ。最近はパワハラに対して怒りとかよりも悲しみを感じる。たとえそういう感情を抱いていても、東北の電力の安定供給の為に彼らが命を懸けて働いているのも事実であるし、覚悟が無い人には出来ない仕事を続けていることには素直に尊敬に値する価値があると思う。少なくとも僕には出来なかった。続けられなかった。

 

もちろんパワハラそのものは罪だ。愚かだ。以前このブログで主張したことがあるが、僕は他人を見下したくは無い。だから見下されるような愚かな真似を少なくとも僕の前ではしないで欲しい。どんな行動や主張だって他人を傷つける悪意さえなければきっと主張する本人の中に(客観的事実とは異なったとしても)真実があるのだから、それを無碍にしたり馬鹿にすることは許されないことだ。だから対立する主張や論争はお互いどちらかがぶっ倒れるまで夜通しすればいいと思うし、それで分かり合えないならお互い視界に入らなければいいと思う。

 

今の自分は前向きだと思う。普通の思考を持った普通の人間で、少しばかり舌が回り、直情的で詭弁家で頭でっかちであるという自覚がある。諦めとかみたいなそういう悪い意味ではない意味で「それでもいい」と思えている。彼女のおかげかもしれない。春という季節のせいかもしれない。今後また落ち込んだり悲しくなったりするかもしれない。けれど、この自己肯定感の高まりが続くうちは他人に優しくできると思う。他人に対して優しくありたいという願望が続くと思う。

 

年齢相応、と言わないまでも自分も少しづつ成長して階段を登っている途中なんだろう。人間は変わらない、と強気に論じたことがあるが自分の考え方の変わり様を見るに、良い方向にも悪い方向にもその場その場で幾らでも変わるものなのだろう。それを成長と呼ぶか堕落と呼ぶかは別として、少なくとも自分は良い方向に向かって歩んでいる。そう考えていた方が人生うまくいく気がする。きっと。

 

 

深淵を覗く時

昨日、春の陽気に当てられて友人と二人で公園へ行ってきた。ぶらぶらと散歩し当て所なく彷徨い、平日の真昼間からブランコに揺られて日常生活や将来への不満や不安を語り合った。有意義とは言い難いが満足に足る時間であった。そういう日常生活になんの影も落とさない毒にも薬にもならない時間が好きだ。もちろん限度はあるがね。

 

前回、面倒な話を文字に起こそうとして失敗した。出来上がったのはわかりづらいだけの曖昧で出来の悪い駄文だった。後日、説明を求めてきた友人へ言葉にして伝えたら割とあっさり僕の考えが伝わったのでおそらく自分の文章力というか説明の仕方が悪かったのだろう。

 

また大きな地震があった。毎度毎度、嫌なタイミングで来るそいつは震災を忘れかけた頃にやってきて「11年前を思い出せ」と言わんばかりに僕の記憶を激しく揺さぶり揺れ動かす。僕は別に、3.11に関してトラウマになるようほどの被害を受けたわけじゃない。親類も皆無事、家も倒壊せず津波も映像でしか見ていない。農家でもないから原発関連の風評被害も特にどうということはなかった。もちろん地震がくれば人並みに怖がるし、もしかしたら地震の本当の恐怖やトラウマを忘れているだけという可能性もある。

 

震災から数年経って社会人になってからもやたらと復興を前面に押し出すメディアに辟易としていたし、正直な話を言えば福島県民でありながら部外者でいるような疎外感を覚えながらも傍観者であることを選んだのは自分自身だったというだけなのだ。地震は嫌いだし怖いが、避けられない理不尽として受け入れている事実も実際にある。地震に対して怒ったり悲しんだり嫌な気持ちになったりするが、それ以上でもそれ以下でもない。

 

避けられる類の理不尽も存在するが、それこそ稀有な例だ。基本的に理不尽は避けられないから理不尽なのだ。

だから回避可能な理不尽からは全力で逃げる。それが自分の人生の方針の一つだ。もちろんそういうことから逃げる前にある程度考えて悩み周りに相談して愚痴を言い酒を飲んでぼんやりしてそれでも、その理不尽に対して耐えられないと判断するという一連の儀式を経てからやっと、「逃げる」コマンドを選択することができる。

 

逃げる、という行動について考えること。

一般的に努力とか耐えることとか頑張ることってのは美徳、と言わないまでも良いことだと認識されているように感じる。僕はその考え方自体を否定しようとは思わないが、やはりそれらの行動に対して良い結果とかある程度の成果を上げなければそこに意味とか意義がついてこないように思う。

だから、成果も結果も期待できないなら、苦しいことから逃げるのは断然アリだし、むしろ苦しいことから常に逃げたい僕からすれば「苦しくても逃げない狂人のせいで逃げることが許されない環境が醸成されるのではないか」という懸念すらある。もちろん、求める成果がその苦しみの先にあると言うのなら僕の戯言など聞き流してくれて構わない。

 

友人と散歩した日の午前中に会社へ連絡し、4月いっぱいで仕事を辞めさせてもらえないか交渉した。前回1月末に相談した際はありがちな精神論と根性論で流されてしまったので、今回はきちんと仕事を続けられない理由もいくつかのポイントに絞って主張させて頂いた。

元請けの会社やこの会社の先輩達パワハラがきついこと、ワークライフバランスが悪いこと、このまま続けてもいずれ辞めるだろうから早い方が年齢的にも都合が良いということ、命の危険の伴う作業をミスなく迅速に行うことが難しいということ。そもそも会社の人間と価値観がまるっきり合わないこと。

どれもこれも自分の未熟さが招いた結果である。金に釣られて目が眩んだ入社前の楽観がこういう事態を招いたのだ。身に余る何かを求めればそれ相応の犠牲が付き纏うように、僕はそれだけの犠牲を払う覚悟が無かった。けれどいい勉強になった。ああいう掃き溜めのような環境で馬鹿が馬鹿を見下し、貶し、口汚く罵るという到底令和の時代とは思えない地獄があることを知ることが出来た。

 

どんなに仕事ができても他人に優しく出来ないやつはクズだよ。フィリップ・マーロウだって言っていた。「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きてる価値がない。」

奴らは根本的に間違えていることが一つある。「厳しく指導して仕事を教えること」と「冷たくあしらって罵声を浴びせて人格否定すること」は違うんだよ。それが業界における洗礼なのだとしても、理不尽だ。

だがその理不尽は仕事を辞めることで回避ができる。僕は僕の命や精神を守る義務がある。だから逃げさせて頂く。

 

土曜の夜の話。

随分遅くなってしまったが2回目のコロナワクチンを金曜日に打った。昨日は副反応で一日中床に臥せていたが、久々に高熱にうなされて苦しい思いをした。頭痛、倦怠感、空腹、眠気。どこにも救いのない布団の中でびっしょりと汗をかきながらYouTubeを垂れ流しながらうんうんと唸っていた。

 

昼過ぎになってやっと頭痛薬があったことを思い出し、起き上がるのも億劫な中、なんとかトイレと歯磨きと服薬を済ませると飲み物がコーヒーとビール以外何もないことに気づいた。流石に体調の悪い時に飲むモノじゃないな、と思っても外へ出るのも難しくまた布団へ潜り込む。

 

こういう時に一人暮らしの寂しさというか悲しさというか、なんとも居た堪れない感覚が襲ってきて嫌な気持ちになる。ぼんやりとした薄暗い感情を受け流すこともできず、気を紛らわせようと楽しいことを考えようと試みても微塵も思い付かず意気消沈。

 

夕方。17時。頭痛薬がバリバリに効いてきてテンションが上がってきた。多分大丈夫、と思いながらポカリとプリンを買いにコンビニへ行こうと外へ出た。昨日の夜から何も食べていなかったことを思い出して、唐突に"この不調を乗り越えるにはラーメンを食べるしかない"という妄想に取り憑かれた。正常な行動は正常な思考と正常な判断から成り立つ。生憎そのタイミングではそのどちらもが欠けていた。つまり僕はラーメン屋の駐車場へ難なく車を滑り込ませた。

 

ぼんやりした頭で啜ったラーメンは非常に美味しかったが、食後の吐き気たるや凄まじいものでありまして、今思えば愚かな行動だったと思います。合掌。死んではいないけど。

帰宅してからダイイングライト2をやろうとしたが、画面が激しく切り替わるゲームをできる体調でなかったのでマイクラをやっていた。こういう時には優しい音楽と刺激の少ないゲームで気分を紛らわせるのが人生のコツだと死んだばあちゃんが言っていた気がする。絶対に言ってないけど、言ってたことにしといたほうが人生うまくいく。

 

夜10時を回って最近できた彼女(本物)がレトルトパックのお粥とポカリを買ってきた。マジで泣きそうになった。これが現実に存在する本物の彼女というものなのか、と感動したからだ。一人暮らしという孤独な生活を5年以上続けているとそういう何気ない気遣いに痛く感動する。彼女に関してとてもとても自慢したくて堪らないけど、言いふらしたりするなと言われた手前この程度に留めておく。

 

その後はすぐに寝たが、額に触れる数年ぶりの冷えピタの感触がなんとも嬉しくニマニマと気持ちの悪い笑みをこぼしていたような気がする。そんな土曜の夜の話。

消えたサンドイッチ

狂気じみた文章を書こう、という試み。そも狂気じみた文章を書こうという試みを試みている時点で作為的に"そう見える"ように書いてはまるで狂気とは程遠い文章になってしまうのではないか、という危惧がある。ここは一つ、そういう文章を書こうと思った理由を押し並べてずらずらと書き綴っていこうではないか。

 

まず、初めに皆さんはサブウェイというサンドイッチチェーン店をご存じだろうか。狂気的な文章を書く試みとはかけ離れた切り口で話が始まったがまぁ最後まで話を聞いてくれ。

僕はサブウェイへは人生で二度ほどしか行ったことがない。今日米沢のサブウェイへ行ったのを加算すれば三度目だ。注文方法がやたらと面倒で「アレはドレにしますか、コレはドレにしますか、ソレはつけますか」だのなんだのとやたらと問答とトッピングバリエーションが多い。だがあの楕円形の潜水艦のようなサンドイッチ(オシャレな言い方ならパニーニ?)は非常にうまい。とても、というレベルを超えた"非常に"というおいしさ。家であのレベルのサンドイッチを喰おうと思えば割と結構材料やら作る手間やらが大変だろう。

 

僕はある日あの楕円形の潜水艦のような形をしたサンドイッチが無性に食べたくなった。なってしまった。コンビニの安い紛い物のサンドイッチを食べてから本物への渇望の芽が徐々に育っているのを自覚していたが、機を逃したと気付くのはいつも手遅れになってからである。サブウェイの味の再現動画など見るべきではなかったのかもしれない。だがその時の自分に必要なのは紛うことなき本物のサブウェイのサンドイッチだったのだ。

サブウェイへ行きたくなった動画↓

 

僕の住む福島市にはサブウェイが一軒しかない。それもヨークベニマルというスーパーの中に間借りするようにしてそのサブウェイは存在しており、スーパーが改修工事ともなれば必然的にサブウェイも営業はしていないということになる。その事実が判明したときは危うく気が狂うかと思った。手に届く位置にある時はたいして目に入りもしないのに、いざ手に入らないとなると途端にソレは絶対の魔力を伴って欲望を刺激する。人間はなんて愚かで脆弱な生き物なんだ。

 

サブウェイのサンドイッチは酸っぱい葡萄にはなり得ない。そして代替となる物も所詮は紛い物。とすれば米沢のサブウェイまで片道48km、往復で約100km。行くしかないだろう?今回に限っていえば距離など問題ではなかった。一人で行くことの方が気掛かりだった。なぜならこれはきっと"正常な判断"ではないからだ。たかがサンドイッチを食べるためだけに高速道路に乗ってまで雪の中遠出する。傍目から見れば狂人。だがそれでいい。俺は狂ってでもサブウェイのサンドイッチが食べたい。

 

そして僕は友人を何人か誘い、一人を除いて全員に断られた。一つ下の後輩と共に豆粒のように小さい軽自動車に乗ってサブウェイへ行ってきた。結論から言おう。サブウェイのサンドイッチは最高だった。基本的に自分は何を食べても美味しく食べられる極度の貧乏舌であると自認しているがサブウェイのサンドイッチは別だ。なぜ今まで毎日食べていなかったのか不思議なぐらい美味かった。今後は好きなバーガーチェーンを問われたらサブウェイと答えよう。サブウェイはバーガーチェーンではないが、サブウェイの魔力に蝕まれた人間はそう答えるに違いないからだ。

 

この世には大いなる悲劇が数多くあるが、その悲しみの欠片を今日も一つ発見した。確かにサンドイッチを食べ終わった俺は非常に満足した。それと同時に悲しくもなった。サンドイッチは食べると無くなってしまう。そんな当たり前のことに気づいたからだ。Twitterでそのことを嘆いているとなんとサブウェイの広報アカウントからリプライが。

 

 

もうここから先は狂気の時間だ。狂気とは愛。俺は今日を境にサブウェイとサブウェイのサンドイッチへの愛に目覚めた。ただ純粋にサブウェイへ行きたがっていた恋という段階を超えてここから先は如何にしてサブウェイへの愛を深めるのかという愛と狂気に満ちた時間だ。休日のたびに福島にサブウェイがないことを嘆きながら米沢まで通おう。目先の目標は全てのメニューを食べ尽くすことだ。その先はトッピングの組み合わせの開拓。布教活動も忘れてはならない。この怪文はそのためのものだ。この無駄に長い文章を読んだあなたも一度サブウェイへ行ってみてはいかがだろうか。サブウェイに支配された理想の世界を作るための礎となることの第一歩として。

 

なるほど。

「本ばっか読んでるからダメなんだよお前は。暗い奴になっちまうぞ」と仕事場の先輩に言われた。既に手遅れであり、なにより自分は元から根暗で卑屈な野郎ですよ…などと言う勇気は無く愛想笑いでお茶を濁すしかなかった。非常に忸怩たる思いだ。僕が酒に酔っていて手元にビール瓶があったなら先輩の頭を瓶でカチ割って、空っぽの脳みそに向かって「本を読まないとパワハラまがいの失礼なことしか言えない無知で無教養な残念な大人になっちまうぞ」と叫んでいただろう。本を読む大人にもそういうタイプの人間はいるが、そういうタイプの大人の大体は本を読まない。活字離れの悲劇だ。

 

最近おすすめされた湊かなえの小説を3冊ほど読んでみた。サッパリはするがスッキリはしない、ドキドキはするがハラハラはしない。作者の掌の上で転がされ、転がされているとわかりつつその感覚が楽しく気持ちの良い本だった。何よりじっとりとへばりつくような尾を引く不快感を伴った読後感にはむしろ快感すら覚える程だった。湊かなえを読むよう勧めてくれた友人には感謝している。

 

様々な素晴らしい小説と出会う度なぜ今まで読んでなかったんだと感動し、その本を読んでいなかった自分を恥じ、この感動を同じ本でもう一度味わうことができないことに少し落胆する。

世にはまだまだ読んだことのない本があり、それを未だに知らず出会っていないという事実が嬉しくもあり寂しくもある。1日1冊づつ本を読んでも1年で365冊しか読めず、そもそもそんなペースで読み続けられるほど暇でもない。だが年に発表される文学書籍は13000冊ほどあり、選び放題だが読み放題ではない事実に歯痒い思いは増すばかりだ。

 

さてこんな本ばかり読んでいる卑屈で暗い奴のどうでもいい日常生活の話をしよう。仕事場ではパワハラまがいの失礼なことしか言えない無知で無教養な先輩方諸君に囲まれ、その先輩に罵詈雑言を浴びせられながらあせくせと働いている。現場では休憩時間は車の中で過ごす為その先輩と同じ空間で過ごすこととなる。下ネタとパチンコと昔話の話以外まともにコミュニケーションが取れない人間達だ。

趣味はなんだ、読書なんざくだらねぇ、女子供じゃあるまいしそんなの趣味には入らねぇ。僕を否定する言葉が吐きたいのなら最初からそうすればいいのに周りくどく趣味を聞いてくるあたり性格が悪い。そこからは冒頭の言葉につながる。なぜ赤の他人にライフワークともいえる趣味を否定されなければならないのか数時間経った今でもさっぱり理解できない。

 

僕は他人を見下したくは無いのだ。無知で無教養だろうがパチ狂だろうがアル中だろうが、どんな人間だろうと見下したくは無い。だから僕に見下されるような真似を進んで行うような人間とは関わり合いにはなりたくない。関わらなければ僕は彼らを見下す必要もなくなるし取り繕ってぎこちない愛想笑いをする必要も無くなる。

 

 

非常に単純な話だ。さっさと転職しよう。土曜日に事務所に帰ったら専務に話をしよう。特に残念ではありませんが、この業界の人たちとは価値観が合わないので続けられそうにありません。