悩みの日記。記すは発見。残すは苦悩。

日々の悩みや発見を書き起こし、問題解決の糸口を探る為の日記。

あの日食べた人形焼の味を僕は忘れない。

千葉と東京にいる中学時代の友人に会ってきた。ここ2日間、向こう側は雨が降っていて徒歩と電車での移動には傘が必要だった。まんまと折りたたみ傘を忘れた僕は2日間で2本の傘を買った。

福島駅から出た深夜バスを舞浜駅で降りた時、(天気によるところが大きいが)春特有の高揚感や都会へ出てきたうわずった気分は無かった。だが友人に会える期待感以外は何もいらなかった。

 

おそらくあまり理解されない話をさせていただく。今回の小旅行は「友人に会いに行った」のであって「東京・千葉へ行った」のでは無い、ということだ。いや東京と千葉へは行ったんだけども。

そもそも僕は都会へ行ってまでやりたいこと、というのがほとんど無い。向こうへ行く数日前からやりたいことをしばらく考えたが結局何一つ具体的なものは思いつかなかった。強いて言うなら美味しいものが食べたい程度のものだったので特に問題には挙がらなかった。

つまらない人間だと自分でも思うし、他人からそう見えていても不思議ではない。東京という固有の土地へ行く理由が無いからこそ、たとえ友人がチェーン店と田畑しか無いような田舎に住んでいたとしても僕は会いに行っただろう。彼らはそんな土地に住むような愚かな真似はしないと思うが。

 

はい。僕の住む土地、福島はそういう土地です。チェーン店と田畑ばかりがあり、あとは風味づけ程度の山々が少々。この土地はなかなかのもので、優秀な奴は関東へ出て行き、そこそこ頭の回る奴は仙台へ、それ以外の凡骨達と凡骨を見捨てられない人達だけが福島に残っている。これは僕の偏見であり、だからどうという話でもない。もちろん福島にも優秀な人はたくさんいる。

 

最近色々な人と福島の土地柄の話になることが多くあり、一貫して皆口々に「噂話に辟易とする」という話がついて回る。おそらくそれらは上記の凡骨達の築き上げた土地コミュニティが噂話を推し進めているものだと思う。過激な極論でいうなら、あれは異物を排除する為の相互監視社会の一端なのだろう。出る杭は打つ・出ない杭も見張っとく。伊達にイオンをつくる話が難航したのも納得できる。生理的な嫌悪感を感じる人が居るのも理解できる。

 

なんとなく主題が福島(田舎)になっちゃってるけれど、都会にだって思うことはある。衣食住、働く場所など選択肢が多い事は良い事だと思うが、おそらく僕の場合は選択肢が多いと却って選びづらくなってしまう。そして自分の選択に満足できなくなってしまうのではないか、とすら思う。(これって決定回避の法則か……?)無自覚なルサンチマンかもしれないが、住むには少し便利すぎる。足りないものを自覚できるぐらいじゃないと、僕は自分の選択に満足感を感じられないのかもしれない。

 

悲しくて、そしてつまらない人間になってしまった。だがそれでいいのだ。友人が勧めで食べた焼きたての人形焼が美味しかったから。たいして実りのある話を自分ができたとは思えないが、友人と酒が飲めたからそれでよかったのだ。