悩みの日記。記すは発見。残すは苦悩。

日々の悩みや発見を書き起こし、問題解決の糸口を探る為の日記。

階段を登る。

春の風。花粉症の人には辛い季節かもしれないが僕はこの季節がただひたすら嬉しい。雨が降ってもガタガタと震えることもなく、緩い風に目を細めるぐらいのものだ。冬のそれと違って天気が悪くなっても嫌な気持ちにはならず、去りゆく冬を満喫できたか自己採点するだけだ。自分の生きている季節が春であるというだけで何かこう存在を肯定されているような気分になって心地いい。冬はそこに自身が存在することさえ拒まれるような感覚がして肩身が狭いが、四季の中では冬の景色が一番好きだ。

 

4月いっぱいで退職し、5月から介護の仕事へと戻る。あれだけ僕の精神を蝕み自己肯定感を削った介護という仕事だが、今考えれば恵まれた環境に甘えきっていたのだと思うところが多くある。これはその反省文である。介護から離れたのは決して"悪い選択肢"では無かったが"誤った選択"であると今更ながら反省している。これが後悔でないのは自分がどれほど甘えていたのかをよく認識し深く理解することができたからだ。なにせそれは改善ができる。

 

無能を装うことで自分の解決しなければならない人生の課題から逃げる、このブログで綴った苦悩とはそういう行動の表れだったのではないか。介護をやっていた頃は自分が不甲斐ない存在だと思っていたし価値がないとも思っていた。やらなければならない自分に出来る範囲というものを自分で定義して狭めていたようにも思える。当時の自分を否定はしたくないし、あれが当時の自分の目に映る真実だったのは事実だ。自分は無能、という定義が自分を無能にさせていた。

 

だが今は違う。もちろん決して自分が有能で有用な人間だとは思わない。だが今は自分にできることというものを自覚している。今月の29日に27歳になり、ようやくやっと自己覚知の割合が高まってきた。得意なこと、苦手なこと、好きなもの嫌いなもの。価値観、人生観、人間性。悪いところも全部ひっくるめて自分なのだ。こんな、ちゃらちゃらした薄っぺらい言葉を羅列して気恥ずかしいとも思うが、それが今の正直な気持ちだ。

 

今の仕事は自分に向いていない。それは疑いようのない事実であるが、仕事を続ければまた違う結論が出るかもしれない。だが今の仕事に対して未練も執着も、続けるだけの根気であるとか合理的な理由だとか、そういう諸々が無いのでそれはどうしようもない。自分の命の危険が伴う作業であるとか、激しいパワハラや10連勤を上回るような劣悪なワークライフバランスに"耐えてでも続けたい"とは思わない。

 

そういう環境の仕事やその環境そのもの、その環境を作っている人間達は決して悪ではない。(他者を侮辱したり暴力は悪であるが。)彼らもある意味被害者なのだ。そういう環境でしか仕事ができないように育てられた可哀想な人達なのだ。最近はパワハラに対して怒りとかよりも悲しみを感じる。たとえそういう感情を抱いていても、東北の電力の安定供給の為に彼らが命を懸けて働いているのも事実であるし、覚悟が無い人には出来ない仕事を続けていることには素直に尊敬に値する価値があると思う。少なくとも僕には出来なかった。続けられなかった。

 

もちろんパワハラそのものは罪だ。愚かだ。以前このブログで主張したことがあるが、僕は他人を見下したくは無い。だから見下されるような愚かな真似を少なくとも僕の前ではしないで欲しい。どんな行動や主張だって他人を傷つける悪意さえなければきっと主張する本人の中に(客観的事実とは異なったとしても)真実があるのだから、それを無碍にしたり馬鹿にすることは許されないことだ。だから対立する主張や論争はお互いどちらかがぶっ倒れるまで夜通しすればいいと思うし、それで分かり合えないならお互い視界に入らなければいいと思う。

 

今の自分は前向きだと思う。普通の思考を持った普通の人間で、少しばかり舌が回り、直情的で詭弁家で頭でっかちであるという自覚がある。諦めとかみたいなそういう悪い意味ではない意味で「それでもいい」と思えている。彼女のおかげかもしれない。春という季節のせいかもしれない。今後また落ち込んだり悲しくなったりするかもしれない。けれど、この自己肯定感の高まりが続くうちは他人に優しくできると思う。他人に対して優しくありたいという願望が続くと思う。

 

年齢相応、と言わないまでも自分も少しづつ成長して階段を登っている途中なんだろう。人間は変わらない、と強気に論じたことがあるが自分の考え方の変わり様を見るに、良い方向にも悪い方向にもその場その場で幾らでも変わるものなのだろう。それを成長と呼ぶか堕落と呼ぶかは別として、少なくとも自分は良い方向に向かって歩んでいる。そう考えていた方が人生うまくいく気がする。きっと。