悩みの日記。記すは発見。残すは苦悩。

日々の悩みや発見を書き起こし、問題解決の糸口を探る為の日記。

深淵を覗く時

昨日、春の陽気に当てられて友人と二人で公園へ行ってきた。ぶらぶらと散歩し当て所なく彷徨い、平日の真昼間からブランコに揺られて日常生活や将来への不満や不安を語り合った。有意義とは言い難いが満足に足る時間であった。そういう日常生活になんの影も落とさない毒にも薬にもならない時間が好きだ。もちろん限度はあるがね。

 

前回、面倒な話を文字に起こそうとして失敗した。出来上がったのはわかりづらいだけの曖昧で出来の悪い駄文だった。後日、説明を求めてきた友人へ言葉にして伝えたら割とあっさり僕の考えが伝わったのでおそらく自分の文章力というか説明の仕方が悪かったのだろう。

 

また大きな地震があった。毎度毎度、嫌なタイミングで来るそいつは震災を忘れかけた頃にやってきて「11年前を思い出せ」と言わんばかりに僕の記憶を激しく揺さぶり揺れ動かす。僕は別に、3.11に関してトラウマになるようほどの被害を受けたわけじゃない。親類も皆無事、家も倒壊せず津波も映像でしか見ていない。農家でもないから原発関連の風評被害も特にどうということはなかった。もちろん地震がくれば人並みに怖がるし、もしかしたら地震の本当の恐怖やトラウマを忘れているだけという可能性もある。

 

震災から数年経って社会人になってからもやたらと復興を前面に押し出すメディアに辟易としていたし、正直な話を言えば福島県民でありながら部外者でいるような疎外感を覚えながらも傍観者であることを選んだのは自分自身だったというだけなのだ。地震は嫌いだし怖いが、避けられない理不尽として受け入れている事実も実際にある。地震に対して怒ったり悲しんだり嫌な気持ちになったりするが、それ以上でもそれ以下でもない。

 

避けられる類の理不尽も存在するが、それこそ稀有な例だ。基本的に理不尽は避けられないから理不尽なのだ。

だから回避可能な理不尽からは全力で逃げる。それが自分の人生の方針の一つだ。もちろんそういうことから逃げる前にある程度考えて悩み周りに相談して愚痴を言い酒を飲んでぼんやりしてそれでも、その理不尽に対して耐えられないと判断するという一連の儀式を経てからやっと、「逃げる」コマンドを選択することができる。

 

逃げる、という行動について考えること。

一般的に努力とか耐えることとか頑張ることってのは美徳、と言わないまでも良いことだと認識されているように感じる。僕はその考え方自体を否定しようとは思わないが、やはりそれらの行動に対して良い結果とかある程度の成果を上げなければそこに意味とか意義がついてこないように思う。

だから、成果も結果も期待できないなら、苦しいことから逃げるのは断然アリだし、むしろ苦しいことから常に逃げたい僕からすれば「苦しくても逃げない狂人のせいで逃げることが許されない環境が醸成されるのではないか」という懸念すらある。もちろん、求める成果がその苦しみの先にあると言うのなら僕の戯言など聞き流してくれて構わない。

 

友人と散歩した日の午前中に会社へ連絡し、4月いっぱいで仕事を辞めさせてもらえないか交渉した。前回1月末に相談した際はありがちな精神論と根性論で流されてしまったので、今回はきちんと仕事を続けられない理由もいくつかのポイントに絞って主張させて頂いた。

元請けの会社やこの会社の先輩達パワハラがきついこと、ワークライフバランスが悪いこと、このまま続けてもいずれ辞めるだろうから早い方が年齢的にも都合が良いということ、命の危険の伴う作業をミスなく迅速に行うことが難しいということ。そもそも会社の人間と価値観がまるっきり合わないこと。

どれもこれも自分の未熟さが招いた結果である。金に釣られて目が眩んだ入社前の楽観がこういう事態を招いたのだ。身に余る何かを求めればそれ相応の犠牲が付き纏うように、僕はそれだけの犠牲を払う覚悟が無かった。けれどいい勉強になった。ああいう掃き溜めのような環境で馬鹿が馬鹿を見下し、貶し、口汚く罵るという到底令和の時代とは思えない地獄があることを知ることが出来た。

 

どんなに仕事ができても他人に優しく出来ないやつはクズだよ。フィリップ・マーロウだって言っていた。「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きてる価値がない。」

奴らは根本的に間違えていることが一つある。「厳しく指導して仕事を教えること」と「冷たくあしらって罵声を浴びせて人格否定すること」は違うんだよ。それが業界における洗礼なのだとしても、理不尽だ。

だがその理不尽は仕事を辞めることで回避ができる。僕は僕の命や精神を守る義務がある。だから逃げさせて頂く。