悩みの日記。記すは発見。残すは苦悩。

日々の悩みや発見を書き起こし、問題解決の糸口を探る為の日記。

帰りたい、を考える。

ゴールデンウィークが終わり日常へ戻った皆様ごきげんよう。恐ろしいことに福島はすでに春らしい陽気を超えて夏の様な暑さが漂い始めている。これから来たる梅雨へ向けてボルテージを上げてきたと言うことなのか、春が一瞬で終わったような感覚すらある。一年中春ならいいのにだなんて、季節の行事を楽しんでいる各位には口が裂けてもいうことはできないであろうが。

 

さて最近の僕はというと晴れて今月から無職となり、日々怠惰な日常を貪るように消費している。本来の予定なら5月1日には仕事が始まっている予定だったが、とある法人とのやりとりで予定が狂いまくり現在も無職のまま過ごしている。かの法人には怒りを覚えようにも仕方ないという気持ちの方が強く、他の施設の面接を受けた今となっては悲しみこそすれどそれ以上の感情は湧かない。

 

今日は友人の働く施設の面接を受けてきた。前回言ったとおり自分はまた介護の道へ戻ろうと思っており、手っ取り早い手段であると自覚しながらも納得はしているつもりだ。過度な期待感はない代わりに深い絶望感を抱かずに済むと言うのならそれでいいではないか。打算と言われれば肯定するしかなく、それを責めるような真似だけはしないで欲しいと思うのが純然たる僕の願いだ。

 

面接中、一つ印象に残るような質問があった。介護施設ならどこを受けようと必ず聞かれるであろう「認知症の高齢者に対する対応」の質問。「認知症の高齢者が帰宅願望を訴えた場合、どのような対応をしますか」という質問だったと思う。それに対し僕の答えは「その場しのぎのような嘘を言うよりは、状況に応じて本人が納得できる返答がしたいです」と答えた。

 

納得。言葉としては簡単な答えだが実践となると非常に難しい答えだ。納得するのは個人の主観によってのみ起こる出来事・状況だが、それを本当の意味でこちらが計り知ることなど出来はしないのだから。そこに万人共通の普遍性のある答えなど存在しないではないか。それを面接で聞いてくるあたり“介護職らしい”視点であるとも言える。

 

介護職という視点において「帰りたい」という言葉には深い意味がある。様々な思いと連動し、実際の思いとは別に咄嗟に出てくる言葉がおそらく「帰りたい」なのだと僕は解釈している。「どこへ」という対象は生家や今まで住んでいた場所だけではなく、それが時間軸であったり人物であったりと様々だと思う。

以前働いていた施設であった笑い話として、帰宅願望のある入所者を施設職員や担当ケアマネ、地域包括支援センターなどの尽力で家への“お泊まり”を実現したという話を聞いたことがある。入所者の思いを叶え、そこで終わればただひたすら美談なのだが、話はそこで終わらない。その高齢者は家について居間に腰を下ろしこう言ったのだ。「かえりたい」と。

現代落語としてはイマイチだが、作り話にしてはなんとも報われない話である。おそらく本当にあった話なのだろう。さて彼はどこへ帰りたかったのだろうか。そこに普遍性のある答えはあるのだろうか。

 

自分がこれから働く世界はそういう世界なのだ。Howtoはあれど正解は無く、不適切はあれど適格は存在しない世界である。まぁ、精々頑張らせてもらいますわ。それぐらいの気持ちでいないと遣る瀬無さばかりが募っていくのだから。