悩みの日記。記すは発見。残すは苦悩。

日々の悩みや発見を書き起こし、問題解決の糸口を探る為の日記。

夢を見た。

あけましておめでとう。昨年まで素直に"おめでとう"が言えなかった僕も、おめでとうを言われなかった君も、一年を生きて過ごすことができたという事実に対して"おめでとう"。ことさら昨年一年はクソみたいな感染症やらそれに付随する経済的な煽りもあり純粋に生きるという行動が難しかったように思える。

 

昨年一年、どんな年だったか。僕の方はというと半年の無職期間を終え、新しい会社に入り3ヶ月と半月が経った。介護の仕事を続けていた時に悩まされた蒙昧で暗澹たる精神状態も今ではなぜあんなにも悩んでいたのか不思議に思える程に消え去った。だが、よく考えれば不思議でもなんでも無くストレスの方向性が内側から外側へ、割合が変化しただけのことなのだ。

 

年末25日から1月6日までのドチャクソに長い正月休みを満喫し、昨日からまた現場ということで現在は程々に元気。"程々に"というのは一応理由があって、初夢の内容が非常に現実的で冷酷だったからだ。

 

このブログは6年前に一人暮らしを始めた頃に開設し、日々の小さな発見やくだらない妄想、悩みや苦悩を書き捨てて解決策を考える為に作ったものだ。ブログを続けているうちに、いつのまにか文章を書くことが好きになっていたし、誰かの文章を読む際もいろいろ感じる部分が多くなったように思える。話を飛躍させるならば、好きなことをして生きるという事のうちに自分の拙い文章書く・それを読んでもらうということがいつのまにか入っていたのだ。

 

僕のコレは仕事ではなく趣味や習慣の類であり、文章を書く仕事の人たちのソレとは決して比べてはいけないものだという自負がある。だがその自負の影に「文章で飯が食えるならどんなに素晴らしい事だろう」という願望もあったりする。そんなことを昨年末からぼんやりと考えていた最中、僕は恐ろしい初夢を見たのだ。

 

数日経った今でもぼんやりとだが覚えている。僕は夢の中で田舎の街の路地を歩いていた。隣には見知らぬ老人が一緒に散歩をしており、似ても似つかないその老人を僕は「養老孟司」だと認識していた。養老孟司は僕の敬愛する医学博士であり、有名な本だと「バカの壁」などの壁シリーズがある。彼の本は人間の意識とは何か、自然なこととはどんなことなのかを中心に我々の認識の仕方を問い直す本が多い。

 

夢の中では彼とどんな話をしていたのか定かではない。だが、最後に行ったやりとりが非常に印象に残っている。僕は彼に「文章で飯を食えたらいいな」という内容の話をしたと思う。そうすると彼は僕は一万円札を差し出し「この金が受け取れるほど満足のいく文章を一度書いてきなさい」と言ったのだ。そこで言葉に詰まり、目が覚めた。

 

きっと知らず知らずのうちに脳内で脚色している部分はあれど、目が覚めた直後からずっと思い返しては考え、悶絶し、落胆している。一万円札程の価値のある文章なんてあるのだろうか。そして自分はそれをきっと書くことはできないのだろう、と。

 

本屋で手に取ることのできる素晴らしい小説でさえ文庫本なら数百円、ハードカバーなら二千円いくかいかないか。印税という物で考えても作者が一万円を手に入れるのに何冊本を売れば良いのか、何人の人がその文章を求めているのか。千円の本を印税4%で考えれば250冊で一万円。実際は発行した段階で入るものだからハードルは低いように思えるが、出版業界に疎い自分でもわかる。250冊売る(もしくは発行する)ことは決してハードルが低いことではない。

 

初夢を"現実的"で"冷酷だ"と言ったが、夢を見る前から自分の中で答えが出ていたことなのだ。自分の文章が飯を食う為の糧にはなり得ない。なぜならこれは、趣味だから。

君がこの文章を読んでくれて嬉しく思う。この拙い文章に無駄な金を出してがっかりする心配が無いからだ。