悩みの日記。記すは発見。残すは苦悩。

日々の悩みや発見を書き起こし、問題解決の糸口を探る為の日記。

祈っていいですか?

僕の職場には外国から来たスタッフの方もおり、文章関係以外は特に不自由無く働いている。その方はカタコトながらも会話として普通に成立する程度に日本語を話すことができる。不思議なもので、日本に何年いるのかは知らないが、日本人の無能なスタッフよりも日本語を理解してくれる。(これを読んでいる人は無能なスタッフが無能なだけ、みたいな指摘はしてはいけない。)

 

本当の意味での理解、とは程遠くてもニュアンスとしてしっかり伝わっていて、なおかつ理解していることが次の行動に表れてつながっているから、僕としては非常に尊敬に値するし素晴らしい事だとも思う。異国の地で慣れない言葉を積極的に理解しようとするあの精神は日本人である我々こそが見習うべきものだとさえ思う。生きていくために必要なことだからと言われればそれまでだが、その選択肢を取れることが素直に凄い。わかったようなフリをして生返事を返す様な輩は特に見習って欲しい。

 

なぜ今更こんなどうでも良さそうな話をしようと思ったのか。それは僕の頭の中の世界が狭い、と感じることが立て続けに起こったからだ。全然関係ない、だなんてそんなことを言わないで欲しい。最後まで聞いていってくれ、繋がってるのだ。まず、頭の中の世界と言うと妄想か何かと思われるかもしれないのが「頭の中の世界」とは簡単に言えば認識しようとして認識している範囲内のこと。

 

ネットの発達、スマホやPCの普及で僕ら現代人の認識できる範囲は以前よりもグッッッと広がった。スマホをポチポチすれば大抵の場所はわかるし、そこに何があるのかも知ることはできる。何かを知ったり認識するまでのハードルが下がった、だからこそそれと同時に認識しようと意識している範囲は狭まった気がする。25歳そこそこの若造が何を言っている、と嘲笑っても構わない。だが事実だ。

 

例えばネットニュースで話題になるくだらない出来事。匿名掲示板のやりとり。SNSの遠い誰かの風景、画像、情報。それらの多くが多くの人間の目に止まるだろう。けれどそれよりも身近の、例えば近所の人の話題とかはあまり関心が向かなくなった。地域の話題はせいぜい新しいカフェだとか飲み屋だとか、あとはコロナ関連とか、その程度。それすらも無い人間だって多々いる。

 

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昨日、その外国人の方が職場の入居者へ「あなたのために祈っていいですか?」と聞いている場面に出くわした。イノッテイイデスカ?イノル?ああ、祈るね。はいはい。祈るって何を?

 

話を聞けば、面白いものでどうやら彼女はキリスト教徒だそうだ。キリスト教。へェ…外国のそういう文化圏の人ってみんな普通に誰に対しても祈るものなの?と聞いてみた。「がそういうわけではない、けれど私が、せめてあなた(入居者)にできるのはその程度。これは文化というよりは考え方かな。」みたいな感じのニュアンスのことを言っていた。

 

僕も入居者も(就活生以外の多くの日本人は)"祈られ慣れて"いない為、かなり困惑したが"考え方"と聞けば納得はいった。この祈り、とやらは「痛いの痛いのとんでけ」である。僕がWikipediaで聞き齧った程度のキリスト教への知識なんて、目の前の「痛いの痛いのとんでけ」に比べれば薄っぺらで、拭けば飛ぶようなものだ。

 

どこか宗教というと堅苦しくて無知で蒙昧な集団と思っていた。この人はキリスト教徒である、という自分の認識に騙されて「誰かの為に自分に出来ることをやる人」というベースが欠落する。これが先程言っていた認識の狭まりの話。だが、どんな宗教を信仰しようが個人に注視して認識すれば、バックボーンの違いこそあれど誰だってそう大差ない。

 

残念ながら僕は何かを信仰できるほど信心深くは無いので入信することは無い。けれどせっかくだから、とハンドベルの演奏会に招かれた。ご丁寧に招待状付きで。恐ろしさ半分、興味半分、といったところだが彼女の言う通り"せっかくだから"知らない世界もチラッと見ておこうと思う。ただ一つ、宗教絡みでおかしなことにだけならないように自分に対して祈っておくだけだ。