悩みの日記。記すは発見。残すは苦悩。

日々の悩みや発見を書き起こし、問題解決の糸口を探る為の日記。

生きる覚悟

先月の29日に25歳になりました。めでたくも嬉しくもない。

今やその名を知らぬ人はいないであろうコロナウイルスによってもたらされた大いなる喪失はもはや経済にとどまることを知らず、人々の感性の豊かさまでも奪いつつある。もちろん他人事ではない。

 

新型コロナウイルスーCOVIT-19。大抵の人達はこいつに感染することに危機感をある程度持って行動していると思うし、背後から躙り寄るような暗い死の気配にも敏感になっていると思う。もちろん僕だってそうだ。外出するのが怖くてたまらない。だが"より恐れている"のはコロナの被害者になって死ぬことじゃない。周囲にコロナを拡散させて加害者になることだ。加害者になったが最後、新聞やテレビ、Twitterなどで吊し上げられて袋叩きにされて、過剰に反応されて全部ぶっ壊される。死ぬより恐ろしいことだ。怖い。

 

僕は東北のクソ田舎に住んでいるお陰か、身の回りの目に見える範囲内での被害は首都圏に比べれば少ない方だと思っているが、それでも地域特有の「あそこの誰々が感染した」「感染した誰々はどこ勤務で家族構成は…」などという話を続け様に聞いていると、自分も感染したらこう囁かれるのかと恐ろしくてたまったもんじゃない。それにダーツバーに行けないとか友人と遊べないってのは地味に辛い。

 

でも今現在という点に於いて辛いことは大した問題じゃない。生憎、辞めない限り食い逸れるような職業ではないし、大抵の辛いことは忘れられる。

 

往々にして人々は辛いことを忘れる忘れる。人間の素晴らしい機能の一つだ。嫌なことをピンポイントで可能な限り忘れることができたら、おそらくその人間は最高に幸せな生き物だろう。そんなことは認知症にでもならないとできないんだがな。(周囲の人達は忘れられる痛みが出るだろうがそれは別の話だ)

 

皆誰しもが辛い出来事があった筈だ。だがその出来事に耐えきれず自刃した人はこの記事を読んではいない。ある意味ではバイアスのかかった考え方だ。愉快だね。僕は脳みそをどこかに落としてきたらしい。大丈夫だ、(比較的)現実は見えている(つもりだ)。

 

僕の職業は介護だ。世間がコロナ一色の中、施設にいる彼らはそんなことは知らんとばかりに今日も元気(?)に生活している。彼らの生活の均衡は外から"何か"を持ち込んだりしなければ、安らかな終わりに向かって歩みを進めていると言える。彼らのその生活には一片の覚悟も必要は無い。

 

だが僕らは違う。今、もしくはこれから先。生きる覚悟が必要になる。原油先物の価格が0ドルを割る、目処の立たないコロナの終息、国同士のくだらないいざこざ、愚かな人達の危機感の無い行動。世界恐慌以来最悪の時代の幕開けーー。

 

覚悟が、必要だ。自分や家族の命や生活を守って生きる、生きる覚悟が必要だ。適切な社会的距離が必要な今、頼れるモノは限られてくる。国なんかアテにならない。遠い親戚家族だって論外だ。良識の範囲内で、自分の生活は自分で守るしかない。もちろん文化的な営みは続けるべきだ。

 

神は乗り越えられない試練を与えないーー。誰が言ったのかはしらないがクソのような言葉だ。今必要なのは神でも試練でも信仰でもなく覚悟だ。不景気のニュースに頭を悩ませる覚悟、食卓に並ぶおかずが一品減る覚悟、会いたい人に会えない覚悟、タバコをやめる覚悟。小さなものでいい。その小さな一つが必要なのだ。

 

 

 

 

しばらくこのブログを更新していなかったから何をどう書いていたのか忘れている節があるが堪忍してくれ。もともと読んでる人も少ないし内容もスーパーのチラシ以下の価値だ、忘れてくれて構わない。

 

俺たちは明日も明後日も生きていくんだ。

夕食に何を食べるのか考えて寝ろ。おやすみ。