悩みの日記。記すは発見。残すは苦悩。

日々の悩みや発見を書き起こし、問題解決の糸口を探る為の日記。

祈れ。叫べ。立て、叫べ、叫べ。

誠に勝手ながら、私はこないだ行われたキリスト教会での「クリスマスセレブレーション」を「ハンドベルの演奏会」と思い込んでおりました。友人に「ハンドベル見にいこうぜ!」と誘った手前、いざ教会についてからハンドベルのハの字も出てこねぇとなると、我々は誠に勝手ながら「もしかして騙された?」と思ってしまった。愚か。

 

呼ばれた、だから、行った。単純だがたしかにそこに自分の意思はあった。だからこそ後悔することもできた。

 

教会で行われた演目は洗脳チックな歌と子供のわちゃわちゃしたダンス、メッセージ性の強すぎる劇、スーパーハイテンション洗脳ソング、聖書の中の歴史、といった内容である。純粋に恐怖を覚えるものから心がほんわかするくだらなさまで、いやはや宗教とは御新規様にはまるで微塵も向いていないジャンルであると感じた。それに熱を注ぐ信者たちの眼差したるや、水素水を大量に買い込む主婦のソレを彷彿とさせた。

 

最初は彼らの持つ「相手にできる最低限の範囲の行動」であるとか「祈りという文化」に対して興味があった。しかし、それを知ろうと踏み込んだ場所は激しいビートに合わせて「主を讃えよ」と両手を広げてエレクトロニカルに叫び歌う人間の群れだった。ぬるま湯に浸かろうとしたら熱湯に飛び込んでしまった気分。火傷では済まない。全身大火傷だ。

 

よかった部分もいくつかある。

まずコミュニティとしての独立性が高いこと。教会内部の設備は非常に金がかかっている様に見えたし、コミュニティ内の小活動もかなりの頻度で行われているらしい。そしてその独立性とやらの根底にあるのが信仰である、ということが素直に凄いと思う。かなり高いレベルでの互助作用が働いているのが見て取れるし、それによって実際に救われた人がいる。素直に素晴らしいと思う。そこに加わりたいとは思わないが。

 

この構造は宗教以外にも散見される。例えば昭和気質の古い経営体制の会社とか。年功序列への信仰、社長の言葉への忠誠、見返りとしての労働。家族絡みでの社員同士の互助。他の例を挙げるなら高校野球などのスポ根とやら。量質は違えどベクトルは同じだろう。もちろんこれらにも残念ながら加わりたいと思わない。

 

祈りましょう、と言われて祈る人間は一体何を考えているのだろうか。主に祈るという行為にそもそもどういう意味が?両手を広げて叫び歌う信者たちを見て恐怖を感じると共に、疑問が沢山湧いて出てきた。考えてくれ。

自分で考えて行動できるのなら、祈る必要は無いのでは?解決(ないしもしくは妥協)をする為に神の介在が必要なのか?そしてそれが手を広げて叫び歌うことにどう繋がるのか。疑問は多くあるが、全身大火傷以上の火傷を望もうとする人間はいない。

 

人間は自分に都合の良いものを好きになるし、そうでないものを嫌う。彼らにとって神や牧師、または社長や監督はどういった存在なのだろうか。都合の良い存在なのだろうか。それとも場所(教会や会社といったコミュニティ)に付随する記号のような存在なのか。わからないし、わかりたいとも思わない。だが自分をコントロールするのは自分なのだと、強く認識するに至った経緯に対して、今はひたすら感謝したい。俺は自由なのだ。