悩みの日記。記すは発見。残すは苦悩。

日々の悩みや発見を書き起こし、問題解決の糸口を探る為の日記。

選択

仕事を辞めて1ヶ月間の休みを貰いやったこと。特に無し。ぐうたらと過ごし、時折麻雀を打ち、やろうと思っていたダーツにも行くに行けず、それと言って可もなく不可もなく、のんべんだらりと優雅に過ごしていた。

 

毎日が休日。素晴らしき日々。だが人は動かなければ、錆びつき、凝り固まっていずれどこかに亀裂が入る。有給消化期間という激アツゾーンがあと一ヶ月長ければ社会不適合者の仲間入りを果たしていたかもしれない。それが一概に悪いことだと思わないあたり、休日という甘美な毒に蝕まれている証左になるのだろうが。

 

さて、働いて定職についていた時でさえ高い頻度で将来への不安というものに頭を悩まされていた僕であるが、仕事を辞めてその不安感はどうなったのか。

これがまた不思議なもので不安というものを全く感じなくなった。これが死ななければなんとかなるという根拠の無い楽観視なのか、それとも今現在"あるはずの不安"に対して極端に鈍感になったのか…もしくは本当に不安の素が消え去ったのか。理由は定かでは無い。

 

理由がなんであれ、ストレスと向き合う必要が無くなったのは非常に心地の良い気分だった。これがいつまでも続く類のものでないことは充分理解しているが、次の地獄を品定めする余裕ぐらいは持っておきたいものである。

 

この記事を書いている3月11日は東日本大震災から丁度10年。今は職業訓練校へ通いマイクロコンピュータや電子回路について勉強している。公的には働いている扱いだが、世間的に見れば無職だろう。震災当時、高校生だった自分へ「10年後のお前は無職だぞ」と言ったらどんな顔をするのだろうか。おそらく驚きはしないだろう。信じることもないだろうが。

 

当時から僕はずっと生きる意味を探している。それは今も続いており、これからも続くのだろう。震災やコロナで誰が死んでも不思議でない状況を経てなお、自分が生き残っている意味を探している。もちろんこれから死ぬ可能性はゼロでは無い。

探していると言っても、きっと「俺はこの時の為に生きていたのか」と納得することはないのではないだろうか。逆に、言い換えればそういう瞬間を欲しがっているとも言える。そういう瞬間というのが他者によるものなのか場所に付随する事柄なのか、それとも社会的な意義や何かしらの概念に関するものなのか、それはわからない。

 

とりあえず今は生きていくだけ。明日は何をやろう、一週間後は、一ヶ月後は…と目の前にあるものをあるがままに受け入れて楽しもうと思う。明日は酒が飲める。来週はきっとうまい料理を作るだろう。来月には人狼ゲームの開催がある。更に先のことはこれから考えよう。何がやりたい?何をしたら楽しい?何ができたら面白い?

 

その為に不愉快なものは全部捨てよう、こちらを害するものからは逃げよう。楽しく過ごしても憂鬱に生きても最終的に行き着く場所は皆同じ場所なのだから、せめてより良い方を選ぼう。