悩みの日記。記すは発見。残すは苦悩。

日々の悩みや発見を書き起こし、問題解決の糸口を探る為の日記。

業を背負う

少し前に豚の角煮を作った。すこしこってり風にしようと脂落としを軽めにやったところ非常に脂っこいくどいものになってしまった。仕方がないからあれやこれやと試行錯誤して、まぁ満足のいくものになった。友人達数人へ振舞って非常に好評をいただいたので定期的に作りたいと思っている。

 

友人の幕田君が買ってきた豚バラは1.5kgあり、その全てを豚の角煮にしたものだから非常に手間かかることこの上なかった。だがうまい飯、うまい酒、楽しい場の為に労力や努力を惜しむような真似はできない。それはより良い生活、より良い人生に繋がるものだからだ。

 

 

よりよく生きる、とはなんだろうか。僕にとってそれは友人と会話することであり、美味いものを食べて飲むことだ。それは日常の細やかな部分で糧になるものだし、それらを失うことの恐ろしさを概ね理解しているつもりだ。もちろんその糧を失ったが最後、文字通り死ぬのだ。

 

さてここで一つ問おう。あなたは何の為に生きている?

そもそも"生きる"とはなんだろうか。こんな簡単な問いに頭を悩ませる程度には"拗らせて"いる。それでいいと、悪くないと笑える程度に、この問題は時間を費やす価値のあるものだと思っている。

 

一つここで言っておかなければならないのは"死んでいない"のと"生きること"を混同しないで欲しいということ。飯を食べれているから生きてます、なんて返答は愚かも愚か、それは生きてこれているという結果ありきの話であって、これからどう生きるのかという話題からは逸れるからだ。この飽食の日本の社会で自殺者が2万人もいる時点で話にならない。

 

仕事をする為に生きています、なんて奴がいるのなら僕はその人を憐憫の眼で見なければならない。君の人生の主体は君に無いのか、と。仕事は生きる為の手段であって目的ではないだろう。

 

目的と手段を履き違えるな。明確でなくてもいいから、何のために生きるのかを考えろ。頭を胴体の飾りにするな、それは帽子をのせるためのものでもサングラス置きでもない。それは考えるためにあるものだ。考えた上でわからないのは構わない。個人で思考のリソースに差があるのは当然の事だからだ。だが考えないのは劣悪だ。

 

何が言いたいのかと言うと、生きる意味ってのは置いといて、"より良く"生きるってのは考えることなんじゃないのかと。勿論それだけでは足りないが、まずはそこが最低限のスタートラインだと僕は思っている。考える事は全てのリソースだ。興味・関心・行動・経験、それらから得られる知識や思考。それらが圧倒的に足りていない奴らが口を揃えて言うのだ「興味ないし、どうでもいい」と。奴らは考えてなんかいない。生きてなんかもいない。死んでいないだけだ。

 

以前は死にたくて仕方が無かった僕だが、滑稽な事に辛いことを切り抜けたら生きる欲が湧いてきた。結局その場限りの希死念慮なんざ「ハワイのビーチでのんびりバカンスをしたい」程度のものなのかもしれない。勿論あの時励ましてくれた人達には感謝している。その場では確実に必要だった処置であることは疑いようも無い。

 

僕は常日頃、今日が人生のピークであると思って生活している。翌日事故死する可能性、血管が詰まって後遺症を抱える可能性、通り魔、テロ、天災や人災、思わぬ何かに巻き込まれる可能性を考えれば、やはり人は呆気なく死ぬからだ。それは僕だけでなく友人や家族、知人から他人に至るまで全ての人に言えることだ。そして誰か一人でも死んでみろ、パズルの1ピースが無くなれば全体を損なうのと同じようにそれは人生の損失だ。

 

誰だって損失は被りたくはないだろう。それは傲慢で強欲な事かもしれないが、得てして人間成しえぬ所業とも言える。少なくともこの時代、人間の枠は越えられないのだからそれっぽく振る舞ってやろうじゃないか。