悩みの日記。記すは発見。残すは苦悩。

日々の悩みや発見を書き起こし、問題解決の糸口を探る為の日記。

格ゲーと私とあなた

格闘ゲームといえば誰もが思い浮かべるであろうストリートファイター。やったことはあるだろうか?

私は5日前に齢24歳にして人生で初めてストリートファイターをプレイした。使いたいキャラはレインボーミカ、もしくはザンギエフ。掴みたい、という一心だ。

 

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私の人生初の格闘ゲームは小学生の頃、鉄拳3だった。持ちキャラやコマンドという概念すら無く、ブライアンの蹴りが強いということだけが格ゲーの全てだった。

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時は流れて高校生時代。友人のN氏の家でブレイブルーを触ったのが転機であった。

その頃はアーケードコントローラなど高価で買うことは出来ず、プレステ3のコントローラで格ゲーをやっていた。昇竜コマンドが出せず、私の使うテイガーは弱かった。ひたすら掴み、投げ、そして負けた。基礎コンボすら怪しいテイガーだったから当然だった。

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専門学校を経て社会人になり、一人暮らしを始めた。専門学校の頃の友人K氏とゲームセンターで何度も戦った。コンボを覚えた。見知らぬ乱入者とも拳を交わした。最後には必ず「対戦ありがとうございました」の言葉があった。

 

専門学校の頃の友人K氏は私にアケコンの使い方を教え、コマンドの正しい入力方法を教え、フレームの概念を教え…といろいろなことを教えた。いわば私の師匠だ。

だが彼はBBCFにナインが実装された次の年の4月に2度と会えない遥か遠くへ行ってしまった。私は泣いた。

 

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師匠がいなくなっても、格ゲーは続いた。職場の1つ上の、同じ専門学校だった奴と格ゲーを続けた。

ブレイブルーからブレイブルークロスタッグバトルへ、そしてこれからストリートファイターⅤへと移り変わりはあるが、格ゲーを続けている。今ならノエルの唐突な盆踊りにも対応できる(筈)。

 

大きい大会も、小さな交流会も参加はしてないし、格ゲー界隈で関わりのある人も少ない。

だがこれからネット対戦やゲーセンで出会うであろう猛者に心踊る自分がいる。理由は無いが、モチベーションが高いことを自覚している。

 

次に対戦するのは誰だろうか。見知らぬ誰かだろうか、それともこの記事を読んでいるあなたかもしれない。

 

午前4時のこんな時間までアケコンをいじくりまわして練習をしていると、ウズウズしてくる。早く戦いたいが、基礎をもっと固めたい。

ストリートファイターⅤに関しては発売から3年もの月日が経っている。私は完全に経験値も知識量もマイナスからのスタートだ。

 

どんな面白い対戦が待っているのか、楽しみだ。

 

憂鬱

 

歯が痛い。歯磨きをサボってたわけでもないのに、親知らずは私の知らないところで虫歯になっていた。

 

石のような硬さのせんべいを食べた時、明らかにせんべい以外のものを噛み砕く音がして、それが自らの親知らずだとは、一体誰が予想できたであろうか。

 

痛い。

今日もまた寝る時間になってからというものの顎が、頬が、歯が、悲鳴をあげる。痛い。

 

純粋に憂鬱。

ある日突然、スイッチがオフになって戻らなくなった。やる気は1㎎も出てこないし、仕事も熱は入らない。

無論、歯を噛み砕いてからの話だ。

 

私が一体、どんな悪さをしたって言うんだ。なぜこんなにも歯が痛いんだ。なぜ福島の冬はこんなにも寒いんだ。畜生。

 

そういえば職場の同僚が私を慮って痛み止めの薬を2錠くれたんだった。思い出して薬を飲んでみたけれど、一向に引かない歯痛を前に憂鬱さだけが積もっていく。

 

何ヶ月か放置してたブログにこんなことを書いても歯痛は治らないし、憂鬱な心は晴れないし、職場は爆発しない。あぁ憂鬱。

 

最近ダーツは調子が良いけれど、ダーツ以外の趣味ってなんだっけってレベルでダーツ以外何もやってなくて、ここからもしもダーツをやめたら私に何が残るのか、おぞましくて考えることもできない。

格ゲーだろうか。勝てないのに?

プラモだろうか。作らないのに?

読書だろうか。なんだろうか。

 

憂鬱。歯が痛いだけでこんなにも憂鬱になるとは思いもしなかった。この憂鬱さを忘れないために日記に書いておこう。

おやすみ。

メリーなクリスマス

サンタなんてものを信じている幼気な子も、自分がサンタになる番になった大人達も、メリークリスマス。

今日はクリスマス。

 

世間の喧騒を忘れ家族で過ごす日。

 

そんな日に私はユニット会議がある。もちろん出席などしない。酒を飲むからだ。

 

家族と過ごすこともない。一人暮らしだからだ。

ケーキは食べない。プレゼントもない。だが酒はある。

世間の喧騒を忘れることもない。私がその喧騒そのものになるからだ。

 

子供の頃に想い描いていた幸せな一般家庭から遠ざかる一方で、1つの価値観にとらわれる必要は無いと自分に言い聞かせて酒を飲む。

この際だからそれがメリー(幸せな)クリスマスかどうかは置いておこう。

 

どうせ毎年クリスマスは来るのだ。平成最後のクリスマスは今日限りだが。

 

この記事を読んで優越感を覚える諸君も、そうでない哀れみを覚える君も、メリークリスマス。

 

 

ヘイト・オブ・ホトケ

9月も月末、上半期が終わろうとしている。私の職場の職員同士の不和や環境に対する不満は新体制2ヶ月目にしてなお盛り上がりを見せていた。

 

なぜこうなった。そして頭を抱えているのは私だけなのだろうか。

 

確かに以前から不和や不満の火種はそこらじゅうにゴロゴロと転がっていた。ここ最近のユニット内の感触としては、一向に解決しない問題への不満の慢性化が噴出して来たものが多い。

 

例えば、再来月には妊婦のYさんが産休に入る。単純に労働力を一人分失う。

しかし、それに伴う人員の配置転換は無い、と主任であるHさんが言い切った。ユニットリーダーであるSさんはというと、あろうことかそれに同調。人がいないのはどこも同じだから、とのこと。

 

パート職員や年増の囂しい職員はもちろん不満を声にしていた。私への愚痴という形で。

私は飲み会の席で思い切って主任に尋ねてみた。職員個人のマンパワーの底上げを狙うのは賛成だが、労働環境が悪化するのはどうお考えか。

主任はにこやかに答えた。慣れれば問題ないよ、と。

 

一体何を言っているんだろう、コイツ。ビールがピッチャーで運ばれて来て良かったと思った。もしも瓶だったら、主任の頭を瓶で叩き割っていた。

問題に目を瞑り、我を通すやり方。主任という肩書きを持つ人間のそれでは無かった。

 

問題は更に出てきた。主任は集団体操などのレクリエーションを日課にするというのだ。2〜3日に1度ぐらいの頻度で行なっていたレクだが、確かに痛いところを突かれた。

 

本来なら高齢者の機能の維持や楽しみの創出の為に行われるレクだが、ここのユニットはいかんせよ高齢者の認知度が高く、集団体操を行う意義が少ない。(手本を見て同じ動作が出来ない為。)

業務量の多さに忙殺されて個人的な関わりを持つことができていない現状、意義の少ない集団体操に時間を割く程の余裕がこのユニットにあるのだろうか。入居者の介護度の重度化がかなりの割合で業務に響いているというのに。

そしてまたもや愚痴の嵐である。なぜ私にいうのだ。主任に言え、阿呆共め。

 

月末に行われるユニット会議が今月だけ月の中旬で行われた。もちろん主任の一声で。

ユニット会議内でレクの話が上がった。ここぞとばかりに私はレクの義務化に対する考え方を述べた。帰ってきた言葉を聞いて私は後悔した。

 

慣れれば問題無いから、ルーチン化はやめません。代わりに、入居者個人の楽しみを紙に書いて提出してください。それらも今後、ルーチンに組み込みます。

 

もう、ダメだ。主任は暴走してる。職員の労働力が際限なくあるものだとでも思っているのか、コイツは。話にならない。

 

できるならやってるわ。出来ないからやってない。だから環境なり働き方なり、それを改善していこうという考えは無いのか。

やることばかりが増して、人員は減り、労働環境は悪化する。職員同士のヘイト管理がどうとか、主任に少しでも期待した私が馬鹿だった。

 

まぁ、いい。落ちるとこまで堕ちてみようじゃないか。私は「少なくとも今月は」仏モードなのだ。貯めるさ、ヘイトを。

 

 

仏モード

9月になってしまった。

8月の夏祭りではそれとなくヨサコイを踊り終え、普段と変わらぬ愛すべき殺伐とした日常が帰ってきたかのように思えた。

 

うふふ。嘘。忙しきことこの上なき。ゲロゲロリ。

研修、伝達講習会、委員会、行事、カンファ。

はい、死んだ。私のライフゼロ。御陀仏で仏様になってしまいました。

 

まぁそんなことはどうでもいい。

以前から幾度となく伝えてきたが、私の仕事は介護士だ。介護福祉士の資格は持っているが、資格の有無など些細な違いでしかないと思っているので、私は介護福祉士とは名乗らない。

 

ここ二ヶ月で私の働くユニットの環境が大きく変化した。部署の中堅であるMさんと副主任であるSさんが異動と産休で部署から離れていったのだ。ユニットにおける精神的支柱であった彼らが抜けたことによる影響は大きく、皆ストレスと忙しさで文字通りの満身創痍である。

 

抜けていった彼らの代わりに来たのが妊婦であるYさんと、主任のTさん。この二人がやはりというべきか、ユニットの職員とズレがある。

 

ズレ、と言っても慣れない中でのズレであり、 それが今後どう作用していくのかは私にはわからない。職員同士のヘイト管理は私の仕事ではないので、今は大人しくTさんに任せるしかない。

 

とは言っても現実問題ユニットの雰囲気は最悪で、仕事ができない奴が新人を罵り、ベテランのパートが愚痴を振りまき、リーダーと来たばかり主任は職員感情を把握するので精一杯で何もできていない。

 

私自身はというと愚痴を聞いたり、愚痴を聞いたり、愚痴を聞いたり、と…うーん愚痴しか聞いてねぇなコレ。

 

あはは、どうにもなんねぇや。

 

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飴と鞭、という言葉がある。

帝国時代のドイツの宰相、ビスマルクの政策を指す言葉だが、慣用句として今もよく使われている。

まぁ大雑把に言えば、しつけなどにおいて甘やかしたり厳しくしたりして支配する、という意味。まんまだな。

 

 

 

私にはつい最近決意したことがある。

それは「優しい人間になろう」である。

雑な目標である。これには明確な目的があり、その目的とは「楽に働く」ことにある。この決意までたどり着くにはいくつかの経緯があり、それには上記の職員同士の問題も含まれている。いろいろあったんです。いろいろ。

 

まぁ、なんていうかな。やっぱりいくら仕事ができても他人に優しくできない人間ってクソだなって思うことがありまして。

ーー愚痴は割愛。

 

実際、どのようにして優しい人間という曖昧なモノになるのかと言えば、それは極々単純に「アメになる」ことだ。飴と鞭の、アメになる。

認めて、許す。そして責めない。それを実践するだけ。

 

もちろん舐められるわけにはいかないので(舐められてもいいとは思っていても)自分のやるべきことはやりますよ、ええ。もちろん。

 

まぁ9月を仏モードで乗り越えた後にこの目標の反省なんかを自分でしようかなとか思ってます。

ノールック・ヨサコイ・イン・ザ・ヘル

私が老健から特養に異動して1年。

ついにこの時期が来てしまった。

 

夏祭り。基、地獄。

 

私の今年の担当はヨサコイソーラン。

ラップ調の、何を言っているのかわからないヨサコイに合わせて、激しく手足を振り回す。

非常に腰に負担のかかる踊りだ。馬鹿馬鹿しい。

 

部署の同い年の職員に誘われなければ、練習など行かない。当たり前だ。残業代など出るはずもなく、やりたくてやっているわけでないのだから。

 

だからこそ、私は必死だった。

一日も早くヨサコイとやらを覚えて練習に出なくて済む状態にせねばならぬと決意していた。

 

「していた」……つまり、過去形である。

そう、それは既に過去の話なのである。

 

今はもう覚える気も、練習する気も、ヨサコイを本気でやってる阿呆共に気を遣う気もない。

 

私はヨサコイを覚える為に練習に行っているのだ。自分の時間を使って。

それがどうだ、今日は。

 

「壁を向いて練習しろ」だそうだ。

 

おいおい、壁を向いて練習したって、お手本がなきゃわからんぞ。2.3回ほど踊って、阿呆が言った一言。

「流れを覚えよう」

 

はぁぁーー!?!?

壁を見ろって言ったのてめぇだろうがよ。それとも壁を見てたら流れが覚えられるのか?

 

私はここ2ヶ月ほど、大人になろうと努めて来た。許して、認めるということを信条に文句や愚痴を言わぬよう努めて来たのだ。それを、わざわざ人を怒らせる為に言っているのかと疑いたくなる言葉だった。

 

私は口から出そうになった言葉を飲み込んで、その場で鳴子を投げ捨てて帰った。

文句やら叱責なら甘んじて受け入れよう。

もうやる気は出ない。できる奴とやりたい奴でやればいいんじゃないですかね。

 

 

 

ペンギン

 

ペンギン、という言葉を聞くと息がつまる。

どきりとして、一瞬たじろぐ。冷や汗をかき、キョロキョロとし始める。

 

街中でそんな特徴を持った小太りの男を見かけたら、きっとそれは私だ。

 

森見登美彦のペンギンハイウェイを1ヶ月ほど前に読了した際、私は奇妙な体験をした。そしてその体験は今もなお続いている。

 

ペンギンという言葉を聞くと嫌な気持ちになるのだ。数秒の間、息がつまる程に。

 

ペンギンハイウェイは内容としては面白かったし、森見の表現する奇妙で独特な世界観は私を大いに魅了した。

 

しかし、読了と共に私が得た喪失感はトラウマを呼び起こすのに十分過ぎた。

 

私の持つトラウマは時折、ひょっこりと顔を覗かせては消え去り、落ち着くとまた現れる。

現れる度に私の心臓を握りつぶそうとするのが難点だが、まだ現実にその影を落としてはいないのが救いだ。

 

 

最近はタバコを消費する速度が速くなっている。物語に対する欲は減退している。活発では無いし、長く遠い先を考えるのに苦痛が伴う。

どこに自分がいるのかもわからない。

 

それでも、私もあの少年のように走らなければならないのだ。

素麺を茹でながら、そんなことを考えた夜でした。