悩みの日記。記すは発見。残すは苦悩。

日々の悩みや発見を書き起こし、問題解決の糸口を探る為の日記。

お味噌汁っていいよね。

最近また一人暮らしに戻りました。東福島駅の近く。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、実家は快適だけど窮屈なので、アラサーの独身男性はやはり一人暮らしに限る。

一人暮らしになって掃除洗濯自炊読書不貞寝ゲームとやることが目白押しで、ぼーっとしているとあっという間に一日が終わってしまう。とりわけ自炊に関しては自分が何を食べたいのか明確にしなければ食うどころか作ることもままならないのでクラシルアプリ様様である。

ちなみに一人暮らし開始から1ヶ月が経つが、コンビニ弁当や惣菜の類、インスタント麺などは一度も買っていない。以前の一人暮らしなら考えられないほどの進歩である。この調子でセブンやローソンとは縁を切りたいものである。

 

自炊をしていて思うこと。食事のバランスを取るのが難しい。意図して野菜を摂るようにしないと、すぐ肉と炭水化物ばかりになってしまう。どうにかこうにかサラダの類の作り置きと味噌汁でなんとか野菜を摂っている。

サラダはコブサラダやブロッコリーとツナの和物、コールスローや春雨サラダとか。タッパーいっぱいに作って冷蔵庫へ入れておくのだが、朝夕で2食づつ食べると2日で無くなる。つまり2日置きにサラダを作る。少しだけ、面倒。

 

その点、味噌汁はいいね。作るのも楽だし、何を入れてもそこそこ美味しくなる。組み合わせも基本自由で、どう作っても味噌汁になる。自分はニラと豆腐の味噌が好きです。あと小松菜と油揚げの味噌汁も好き。

味噌汁を作るようになって焼き魚が恋しくなってきた。魚焼きグリルの掃除が嫌すぎて滅多に買わないし、そもそも魚たけーっす。いやこの値段なら鶏肉でええやん、って思ってしまう。だが思う。炊き立ての白米、味噌汁、ひじき、焼き鮭、納豆…という黄金の組み合わせ。アレが無性に食べたくなる。実家なら何の気無しに出てきた組み合わせ。実家が恋しいわけでは無い。

 

まぁ今の社会情勢なら魚って少しだけ贅沢なのかもしれない。もちろん魚にこだわる必要はない。米と味噌汁、目玉焼きと納豆でも充分過ぎるほど充分だ。

料理家の土井善晴も一汁一菜で良い…みたいなことを言っていたしな。(彼の著書は未読である。)何がすごいって、適当にググった土井さんの味噌汁、トマトとかブロッコリー入ってるんすよ。ええっ、て。味噌汁ってそんなに自由なんすか?土井さん?

 

みなさんのご家庭ではお味噌汁、何を入れますか?

前進

1年ほど寝かせていたダーツを今年の1月からまた投げるようになった。理由はとても健全なもので、「外へ出る理由を作らないと家でゲームばかりしてしまう」というものと「純粋にダーツをまたやりたくなってしまった」からだ。ダーツを投げていない期間が1年ほどあったのは単に出張が多すぎて投げれなかったのと金がなかったからだ。

 

僕とダーツをやってくれる友人は3人おり、そのうち2人は実力的にも自分と近く誘ったり誘われたりしながら一緒にダーツをやることが多い。ご飯へ行ったりもする。

もう1人はランダムエンカウントのボスモンスターなので、彼とのダーツは学ぶべきことは多くあれど勝てることは滅多に無い。故にダーツというよりは禅問答や精神修行に近い。もちろんご飯へ行ったりもする。

僕は彼らにとても、とても言葉にはできないぐらい感謝している。自分にダーツをやらせてくれてありがとう。対戦相手がいないと成り立たないゲームなのだから、僕は彼らに救われているとも言える。彼らがいなければ、僕は今も部屋の中でゲームしかしていなかっただろうし、ネット対戦は性に合わない。

ネット対戦なら対戦相手には困らないが、ダーツのネット対戦はあまり好きでは無い。勝っても負けても釈然としない。会話もなければその場の雰囲気も伝わりづらい画面越しでは一試合にかける熱量があまりにも伝わらなさすぎる。本気を出したいし、本気を出されたい。欲張りかもしれないが、遊びでも勝負は勝負だろう?これはさすがに傲慢か。

 

ダーツをまた投げるようになって幾つか思うところがある。まず、現段階の自分はダーツのセンスが無いなと実感している。実力とかではなく、ダーツに向き合う姿勢や考え方のセンスが無いと思う。その日出たチョットだけ良かった成績に満足してしまうし、もっとできる筈のことに貪欲になれないのが苦しくもある。そして何より波があるばかりで成長を実感できていないのが苦しい。もちろんそれらは一朝一夕でどうにかなるものでは無いことは理解している。ただそう感じているのは事実なのだ。

 

向上心はある。強くもなりたいし上手くもなりたい。だがどう足掻いても時間が足りない。毎日投げたいが仕事の都合上そうも言ってられない。疲労も溜まるしストレスを強く感じて上手く楽しめない日もある。これは言い訳なのだろうか。僕にはわからない。

だが、ふと友人の一人に言われた「余計なことを考えている」という言葉に気づきがあったりもする。欲を出しているのか、もっとできる筈だと感じているのか、少なくとも自分は「考えながら投げている」ということに気づけたのだ。それは決して(少なくとも自分にとっては)悪いことでは無い筈だ。

ある程度強い人たちは"余計なモノを削ぎ落としていっている"みたいなニュアンスの話をするが、自分は全くそんな段階のウデマエではないのだ。技術的な話はわからないし、感覚的にビタで投げたいところへ投げられる能力もありはしない。こちらは実力的なセンスの話。

結局投げてる数とか時間とかはまだまだ足りないのだ。試行錯誤という贅沢は思考の上に成り立つのだから、自分はポジティブな意味でこれからなのだ。

 

自分のモチベーションが結構それなりにあることを自己覚知できただけでも一歩進めたってことでよろしいでしょうか。

あの日食べた人形焼の味を僕は忘れない。

千葉と東京にいる中学時代の友人に会ってきた。ここ2日間、向こう側は雨が降っていて徒歩と電車での移動には傘が必要だった。まんまと折りたたみ傘を忘れた僕は2日間で2本の傘を買った。

福島駅から出た深夜バスを舞浜駅で降りた時、(天気によるところが大きいが)春特有の高揚感や都会へ出てきたうわずった気分は無かった。だが友人に会える期待感以外は何もいらなかった。

 

おそらくあまり理解されない話をさせていただく。今回の小旅行は「友人に会いに行った」のであって「東京・千葉へ行った」のでは無い、ということだ。いや東京と千葉へは行ったんだけども。

そもそも僕は都会へ行ってまでやりたいこと、というのがほとんど無い。向こうへ行く数日前からやりたいことをしばらく考えたが結局何一つ具体的なものは思いつかなかった。強いて言うなら美味しいものが食べたい程度のものだったので特に問題には挙がらなかった。

つまらない人間だと自分でも思うし、他人からそう見えていても不思議ではない。東京という固有の土地へ行く理由が無いからこそ、たとえ友人がチェーン店と田畑しか無いような田舎に住んでいたとしても僕は会いに行っただろう。彼らはそんな土地に住むような愚かな真似はしないと思うが。

 

はい。僕の住む土地、福島はそういう土地です。チェーン店と田畑ばかりがあり、あとは風味づけ程度の山々が少々。この土地はなかなかのもので、優秀な奴は関東へ出て行き、そこそこ頭の回る奴は仙台へ、それ以外の凡骨達と凡骨を見捨てられない人達だけが福島に残っている。これは僕の偏見であり、だからどうという話でもない。もちろん福島にも優秀な人はたくさんいる。

 

最近色々な人と福島の土地柄の話になることが多くあり、一貫して皆口々に「噂話に辟易とする」という話がついて回る。おそらくそれらは上記の凡骨達の築き上げた土地コミュニティが噂話を推し進めているものだと思う。過激な極論でいうなら、あれは異物を排除する為の相互監視社会の一端なのだろう。出る杭は打つ・出ない杭も見張っとく。伊達にイオンをつくる話が難航したのも納得できる。生理的な嫌悪感を感じる人が居るのも理解できる。

 

なんとなく主題が福島(田舎)になっちゃってるけれど、都会にだって思うことはある。衣食住、働く場所など選択肢が多い事は良い事だと思うが、おそらく僕の場合は選択肢が多いと却って選びづらくなってしまう。そして自分の選択に満足できなくなってしまうのではないか、とすら思う。(これって決定回避の法則か……?)無自覚なルサンチマンかもしれないが、住むには少し便利すぎる。足りないものを自覚できるぐらいじゃないと、僕は自分の選択に満足感を感じられないのかもしれない。

 

悲しくて、そしてつまらない人間になってしまった。だがそれでいいのだ。友人が勧めで食べた焼きたての人形焼が美味しかったから。たいして実りのある話を自分ができたとは思えないが、友人と酒が飲めたからそれでよかったのだ。

 

立場

かつてこんなにも暑い7月の幕開けがあっただろうか。東京五輪の年の夏もやたら暑かった記憶があるが、ここまで猛烈な暑さだったかは記憶に定かではない。(五輪が去年だったことをこの記事を書き終わるまで忘れていた。)原付に乗らなくなって久しいが、普通車の免許を持っていなかった場合この暑さの中、二十数キロもの距離を二輪に乗っていたかと思うと命拾いした気分になる。四輪様々だ。

 

新しい職場へ来てそろそろ二ヶ月が経つ。この短い期間でよくわかったのは労働が楽しいのは嬉しいことだということ。粗末な感想。

命の危険が無く、パワハラも無い。冷房は付いていて、外の地獄の灼熱の如き、命の危険さえある気温から逃れて仕事ができる。あぁ、なんて恵まれているんだ。タバコが四時間に一度しか吸えないのは苦でもなんでもない。そもそも頻繁にタバコを吸わなければならないほどストレスが溜まるような職場ではないからだ。もちろんストレス云々は嘘である。

 

つい最近衰えたと感じることが多くある。ゲームやアニメ、漫画に対して興味関心が湧かなくなってきていることだ。もちろん実際ゲームをやってる時は楽しいと感じるし、アニメや漫画を見ている時は面白いとも思う。それと同時に空虚だ、とも思う。それらは程よい刺激にはなるがあまりにも刹那的で良い意味でも悪い意味でも、自分の中で熱が持続しない。(とは言いつつ格闘ゲームは好きだし続けている。浅いところで。ある種の惰性。)

 

面白いかもしれないと期待していたものが予想を遥かに下回りつまらなかったり、つまらないだろうと思ったものが予想通りつまらなかったり、一定の知性を期待していた人間が底なしの愚かさを忌憚なく発揮したり、日時生活内で事あるごとにがっかりする事が多くなった。悪い期待の仕方をしているのだと思う。そしてそれらを消費したり目の当たりにしている自分という人間そのものがつまらない人間に成り下がったのだろうとも思う。皆の面白がって熱中しているモノに対して面白がったり熱を傾けるだけの価値を実感できないのがとても辛い。

 

まぁ誰にも責められる内容の悩みではないし、逆にこちら側から見下す話でもない。そこにイシューは存在しない。

議論の的になるべきは常に解決しなければならない課題であり、いつだってそれは目の前に転がる現実でしかない。

 

職場の先輩がクソみたいな仕事をする。まぁそれはどこにでも転がってる問題だ。問題なのは彼がそれを自覚していないのか、それとも充分頑張ってると思っているのか、「それって変じゃない?どゆこと?」と指摘すると彼は不満気な顔をするのだ。言っちゃなんだが、こちらだって他の施設で6年近くの経験がある。傍目に見て明らかにおかしい、不自然な介護には疑問が生じる。

理由や弁明があるならいくらでもすればいいのに。それすらできずに他人のせいにしたり嘘をついたりするのなら、それは他人を怒らせても仕方のない対応だと俺は思う。たとえ相手が年下だろうが上司だろうが、そうやって信用を減らすのは不本意だろう。お互いに。

 

判断を間違えるのは罪じゃあない。だが考えもせず、判断もせず、なされるがままに翻弄され、それらに抗わないのは余りにも怠惰だ。金を貰うならその金額に見合った仕事をしようぜ。お互いに。

ま、僕の「試用期間」という立場から言うべき言葉では無いからこうやって愚痴のように日記に書くのだがね。生意気というのなら甘んじて受け入れよう。だがリスペクトを持てというのなら、それ相応の立場の違いを見せつけてくれよ。

 

 

 

関心のある関係のない話

今年の梅雨はジメジメというよりはヒヤッとするような空気感ですが皆様いかがお過ごしだろうか。新しい職場で働き始めて半月が経ちました。所感としては可もなく不可もなく、長所も短所も数えきれないほどあり「まぁ悪くない職場だな」って感じです。俺は何様だ。

 

真面目に仕事をしよう、と意気込んだ手前こんなことを言うのもなんだが仕事をしていて悲しくなることがある。職員間の対立、技術不足に知識不足、そして大きいのが人員不足。まぁどこの職場にもごろごろ転がっている問題ばかりだ。だからこそ思う。そんな小さな問題を問題として取り上げて「鬼の首」にするのはどうなのだろうか。こんなことをこんなところに書いていることすら心苦しくすらある。

 

より良い介護を提供するのが介護施設の存在意義だ。以前は「施設が施設として存在する事実そのものが施設の存在意義である」と断言していたが、あの頃はまだ考えに甘さがあった。入居者本人も家族も自宅でできる程度の介護よりも専門性の高いサービスを求めているのだから、そこに意義があるのだろう。当たり前のことを俺は言っている。だがそれがわからない奴がどこの施設にも一定数いる。それが悲しい。

 

個人の能力の差に焦点を当てるべきではない。それは介護に限らず複数人で運営される組織ならどの分野にも言えることだと思う。なぜなら最下位を切り続けても新しい最下位が生まれるだけだから。

視点をもっと広く持って、チームとしてのマネジメントを考えるのなら下位何割かのボトムアップかもしくは下位陣でも運用できるマニュアルの策定の方が急務だろう。その視点が今の自分のユニットの上司にあるのかどうかは、残念ながら半月の期間では知り得なかった。積極的に口を出そうとは思わないがね。

 

学生の頃にバイトしていたローソンの店長がしょっちゅう口癖のように「つかまつるところ、結局人間同士分り合うことはできないんですよ」と話をしていたことを思い出す。高校生になんてこと言ってんだ、と思うが最近になってしみじみと、心の底から同意している自分がいることに自然と口角が上がってしまう。まさに今、目の前で、同じ境遇の違う立場の人間が不和を撒き散らしているのだ。笑える。

 

お互いに分かり合えないのだから視界に入らなければいいのに。そうでなければ折衷案が出るまで何日もかけてこんこんと議論でも喧嘩でもすればいいのに。そうできないのなら仲良くしろや。まぁ仲良くするのは業務ではないけれど。俺は仲良くすることも含めて仕事の範疇だと思ってるよ、そうでなければ話しかけないであろう人間なんてたくさんいる。悲しいね。

 

打算が足りないのではないでしょうか。全体的に。誰も彼も。どうでもいいけど。

それぐらいの付かず離れずな空気感を持っていないと閉塞感の強い仕事場は難しいと思いますよ。僕には関係ない話だけど。

麻中の蓬

6月に入り、日中の陽気に熱気が混じり始めて早くも夏の気配を感じるようになった。雨の日は肌寒いが嫌な気持ちはしない。最近の自分はというと新しい職場に無事入職することができ、かろうじて生きている。金が無さ過ぎてスーパーで売っている86円の焼きそばと108円の野菜炒めセットで糊口を凌ぐ生活。飢えを凌ぐには最適だが、人間らしい生活かと問われれば甚だ疑問である。焼きそばを食べ過ぎてパッケージの"焼きそばじゅう太郎"なる人物には愛着すら覚えてきたほどだ。

 

最近…と言ってもここ一週間。新しい職場で即戦力として迎えられた僕であるがここで天狗にならないよう自分を適度に諌める必要があると思っている。今までの技術に胡座をかいて"こなす"だけの仕事をしないようにしたい。謙虚に向上心を持って仕事に励もう。これは本心だ。打算も混じっているが、それも含めて本心だ。

印象は良ければ良いほど働き易くなるし、意外性は落差を持って距離感を縮めるのに役立つ。だから真面目に働くのだ。少なくともこの職場の今のユニットに理不尽なパワハラをしてくる奴はいない。モチベーションを保つのに苦労しなさそうだ、という安堵もある。

 

たが、その安堵に絆されないように自分に出来ることと出来ないことはハッキリと認識する必要がある。やりたいこととやりたくないことも。

サービス残業の多さ、慢性的人員不足、各職員の能率面での問題。どこにでもあるありふれた問題がここにも当然のように転がっている。以前なら「それは俺が関わる問題じゃない」と一蹴していたが、我関せずというのも味気ない。積極的に意見しようとは思わないが、問われるなら答えられる程度の考えは持っておきたい。なにせ僕は良い意味でも悪い意味でも当事者予備軍だ。

 

当事者予備軍。今はまだ我関せずが通り、これからそうは行かなくなる存在。少なくとも試用期間の僕に現在求められているのはいち早く仕事を覚え、職員と円滑な人間関係を築き、周りの負担を減らすことだ。手のかかる経験者の新人なんて肩書きは是が非でも背負ってはいけない。だから意見するわけにはいかない。まだ仕事も覚えてない奴が何偉そうなこと言ってんだ?と言われかねない。今のユニットの優しい人たちにそんなこと言われたら怖くて職場に行かなくなっちまう。

 

ぐだくだと八方美人チックなことを述べているが、これは僕の人間性を覆い隠す仮面なのだろうか。それとも僕の人間性のそういう側面なのか。正直自分にもわからないでいる。"人を形作るのは環境でなく品性"という言葉を聞いたことがあるが、今の職場での自分を形を作っているのは環境のほうが割合として大きいと思う。ここ1年、自分の品性に変化は無いように思えるからだ。

 

ヨモギヨモギのまま曲がりくねって育つのか、真っ直ぐに育つ麻の中ならヨモギすらも真っ直ぐ育つのか…。答え合わせはだいぶ先になりそうだ。

 

帰りたい、を考える。

ゴールデンウィークが終わり日常へ戻った皆様ごきげんよう。恐ろしいことに福島はすでに春らしい陽気を超えて夏の様な暑さが漂い始めている。これから来たる梅雨へ向けてボルテージを上げてきたと言うことなのか、春が一瞬で終わったような感覚すらある。一年中春ならいいのにだなんて、季節の行事を楽しんでいる各位には口が裂けてもいうことはできないであろうが。

 

さて最近の僕はというと晴れて今月から無職となり、日々怠惰な日常を貪るように消費している。本来の予定なら5月1日には仕事が始まっている予定だったが、とある法人とのやりとりで予定が狂いまくり現在も無職のまま過ごしている。かの法人には怒りを覚えようにも仕方ないという気持ちの方が強く、他の施設の面接を受けた今となっては悲しみこそすれどそれ以上の感情は湧かない。

 

今日は友人の働く施設の面接を受けてきた。前回言ったとおり自分はまた介護の道へ戻ろうと思っており、手っ取り早い手段であると自覚しながらも納得はしているつもりだ。過度な期待感はない代わりに深い絶望感を抱かずに済むと言うのならそれでいいではないか。打算と言われれば肯定するしかなく、それを責めるような真似だけはしないで欲しいと思うのが純然たる僕の願いだ。

 

面接中、一つ印象に残るような質問があった。介護施設ならどこを受けようと必ず聞かれるであろう「認知症の高齢者に対する対応」の質問。「認知症の高齢者が帰宅願望を訴えた場合、どのような対応をしますか」という質問だったと思う。それに対し僕の答えは「その場しのぎのような嘘を言うよりは、状況に応じて本人が納得できる返答がしたいです」と答えた。

 

納得。言葉としては簡単な答えだが実践となると非常に難しい答えだ。納得するのは個人の主観によってのみ起こる出来事・状況だが、それを本当の意味でこちらが計り知ることなど出来はしないのだから。そこに万人共通の普遍性のある答えなど存在しないではないか。それを面接で聞いてくるあたり“介護職らしい”視点であるとも言える。

 

介護職という視点において「帰りたい」という言葉には深い意味がある。様々な思いと連動し、実際の思いとは別に咄嗟に出てくる言葉がおそらく「帰りたい」なのだと僕は解釈している。「どこへ」という対象は生家や今まで住んでいた場所だけではなく、それが時間軸であったり人物であったりと様々だと思う。

以前働いていた施設であった笑い話として、帰宅願望のある入所者を施設職員や担当ケアマネ、地域包括支援センターなどの尽力で家への“お泊まり”を実現したという話を聞いたことがある。入所者の思いを叶え、そこで終わればただひたすら美談なのだが、話はそこで終わらない。その高齢者は家について居間に腰を下ろしこう言ったのだ。「かえりたい」と。

現代落語としてはイマイチだが、作り話にしてはなんとも報われない話である。おそらく本当にあった話なのだろう。さて彼はどこへ帰りたかったのだろうか。そこに普遍性のある答えはあるのだろうか。

 

自分がこれから働く世界はそういう世界なのだ。Howtoはあれど正解は無く、不適切はあれど適格は存在しない世界である。まぁ、精々頑張らせてもらいますわ。それぐらいの気持ちでいないと遣る瀬無さばかりが募っていくのだから。