何日か前からの話。
新時代・令和を迎える時、私はというと布団にくるまって寝ていた。仕事を早々に切り上げ、帰宅と同時にうどんを茹でて、風呂に入って寝ていた。就寝、18時である。
悍ましい眠気、(抜いたのとは逆の)親知らずの虫歯の痛み、憂鬱な翌日の出勤、出してなかった燃えるゴミ。全てを平成の時代に置き去りにするべく私は寝ていた。睡眠に対して貪欲であった。目が覚めて気づくと、置き去りにできなかったモノが身の回りにゴロゴロと転がっていた。
自分の日常の何かが変わったわけでも無く、いつまでも昨日までの自分を引き摺って生きていくのだ。浮かれちゃあいけない、と自分によく言い聞かせて、次の日に出勤してから一番に出た言葉は「平成終わっちゃいましたね」なんて陳腐なものだった。NEW 令和の伊藤にはなれなかった。
令和になってからのビックイベントといえば、世間を賑わす10連休のゴールデンウィークだろう。もちろん私は仕事だ。仕事終わりに鬱憤を晴らすかのように、この記事を書いているが私の小さな小さな鬱憤は底が見えない。
平成が終わってから平成のことを考え始めて憂鬱に浸ったり、始まって間もない令和という時代に仄かな絶望感を抱いていたりと心の内は筆舌に尽くしがたい。誰でも持ってる過去の後悔と将来の不安。そんなものに押しつぶされそうなのが私である。
もっと能天気に生きてた頃はこんなに頻繁に憂鬱になることなど無かったと思う。忘れているだけかもしれないが。
考えるのをやめて能天気に生きればきっと今よりは楽出来るだろう。だが考えるのは人間の武器だし、考えるのは人間の義務だ。考えることができなくなったやつから順にロボットや歯車になっていく。もしくは生きてる死体か。
平成が終わってから数日間を実感もないまま過ごしてしまった私は、乗り逃した波がどれぐらいの大きさだったのかを噛みしめることもできずに地続きの毎日を送っている。
Twitterでは「平成に置いてきたいもの」なんてものも少し目立ったりして価値観の変容が叫ばれたりしているが、そんなものは変えようと思って変わるものでなく、「気づいたらそうだったもの」なんじゃないかと思ったりもする。
気づいたらそうだったもの?私にとって、それは元号だ。
何かを置いてきたりする間も無く、置いてけぼりにされて残される。
時代を追い抜くぐらいの速度が、今はただひたすら欲しい。