謎の三連休、二日目。
私は有意義な時間を過ごさなければならないと焦りに焦って睡眠時間を削って小説を読んでいた。
いつの間にか寝てしまい、気づいたら友人の幕田氏が家の中にいた。
夜勤明けの彼は焼肉が食べたいらしく、その旨を前日にTwitterで呟いていた。午後2時から焼肉を食べるわけにもいかず、何と無くでバトスピをしていた時に彼は釣りがしたい、と呟いた。
今から海に行くわけにもいかないので、我々は南福島のアミューズパーク、もとい釣り堀に来ていた。
丁度良い時間潰しであるはずの釣りも、魚が釣れなければ無益な待ち惚けに終わる。向かいの中年2人組みがバンバン魚を釣り上げる中、幕田氏はただ黙々と釣り糸を垂らしていた。
焦りが魚を遠ざけているようにも見えた。
私は隣でその姿を見ながら思うことがあった。
果たして、水槽の中の魚は幸せなのだろうか。
彼ら魚の生まれの地(水?)が何処なのかは置いておいて、死ぬまで水槽の中。
釣られて、放たれ、また釣られて放たれる。そんな毎日に辟易としないのだろうか。
我々人間もまた、起きて食べ働き寝るといったサイクルを永々とこなし、仕事を辞めればそこからは死ぬまでのモラトリアムである。
よく魚になれたら〜とか、鳥になれたら〜、と言う人間がいるが結局やることは変わらないのである。
魚の幸せなど理解はできない。
人間の幸せも杓子定規では測れないのだ、理解など到底できそうも無い。